何かが終わったのだ。
一つの道が。思いが。縋りつく手を安々と離れて、過ぎ去っていったのだと、昨日までの自分が告げる。
歩幅を緩め、手を取り合い、共に歩いて行こう、と。そんな風に誰かと寄り添い生きることが、自分にできるはずはない、と信じきった己が確かにいた。戦いに明け暮れ、そんな風に生きることを望み、それでいいと思い、だからかつて、己は人であらざるもので、ただの獣だった。
芋をあげたことに意味はなかった。ただ、あの時、飢えのあまりたった芋三個を手に入れるためだけに人を殺す事も厭わなかった子供が、幼い自分と重なっただけだ。だから、あれは子供を助けたわけではない。情けではない。施しじゃない。そんなものは与える間もなく、枯れている。もし、本当にあの時、救いたいものがあったとしたら、それはたった一人、己だ。憐れな子供と重ねた自分だった。
「馬鹿だな、一角。もし本当に救いたいのが自分だけだったら、君は子供を殺して芋を独り占めしていればよかったんだよ、君にはそれができたはずだよ。だから、本当は、君は、あの子を助けたかったんだ、」
違う。
もし、慈悲があるとするなら。それは子供が与えたものだ。たった三個の芋を皆に分け与え、残された匙ひとすくいの芋ですら、己に分け与えたあの子供が持っていたものだ。
枯渇する。焦燥する。己の中の乾ききった何か。
欲求にだけ沿い、人間らしさからは程遠い己に、枯れた源泉に水が溢れるが如く子供が与えたもの。共に手を取り、歩き、そうして誰かを守り、生きたい、とそんな生き方が、己にもできる、のだと信じさせた存在。子供が残したものは、自分もまた人であることを思い出せた。
「それに知ってる?憐れみとは総じてイトシイと言うんだ。愛おしい、と。だから、君は本当は、あの子を――」
立ち上がり、一歩踏み出した。草を踏む音を聞いて、目の前の男は振り返った。見れば見るほど、凶暴さを滲ませる男だ。もう一度、戦いを挑んでも、この男には勝てる気がしない。一角は、一度、大きく息を吸い、自分よりも遥かに大きな男の姿を見据えた。
同じような境遇で生き、それを享受し、けれど、これほどの力の差は何だろう、と遥かに強い男を見て一角は思った。この男の強さを培ったものは。思いは。意志は。一体何処から生まれてくるのか、と。
一角は、一度、唾液を飲み込み、枯れた喉で声を押し出した。思っていたよりもずっとはっきり声は出た。
「借りが、できた」
男はゆっくりと体をこちらに向け、告げる一角を見据えた。
「アンタがいなけりゃ、今ここに俺はいない。仇討ちも果たせず、死んでいただろう。あんたには、助けてもらった恩がある」
剣八。
あの日、自分の前に立ちはだかった男の存在は今では己の中で特別な何かになりつつある。何一つ、与えられるものを持ってはいないが、一つだけこの男に確かな事が言える。
「借りは返す。手が必要ならいつでも言ってくれ。その時は、あんたの為に死んでやってもいい」
嘘はない。自分は本当にこの男の為なら死ねるだろう、と一角は、思った。この男がそれを望むなら、命をかけることすら厭わないだろう、と。剣八は一角の言葉に驚いたように一瞬目を開け、一度、肩を大きく震わせ、声をあげて笑った。
「つまらねえぜ、一角」
そうして、ゆっくりと告げる。
「俺のために死ぬくれえなら、強くなって、俺を楽しませろ、」
風が吹きぬけた。朝露の残る青葉が音を立てて揺れた。剣八は振り返り、視界の先まで続く草原を眺めた。一角は、剣八が見据えた先を視線で追い、遥か地平を見た。
これから何処に行く。問う。男は何もない地平を指差し、西を目指すと告げる。西に何がある。瀞霊廷。瀞霊廷、そこに何がある。俺は、そこで死神になる。
「死神…、」
ただ一人、こうありたいと願う人がいる。
八千流
それゆえ、剣八は強さを欲し、この先の道にゆく。
「一角、」
振り返ると、弓親がいた。一角は一度、その名を呼び、当たり前に隣に立つ弓親の姿を見た。もうずっと、弓親が傍にいる。こうして、傍に寄り添い、当たり前のように隣に立っている。気付けば分かち合っている。そうやって共に同じ地面の上で生きている。
剣八は歩き出し、弓親はただ静かに、君はどうする、と一角に問うた。一角は一度瞼を閉じ、何度か呼気を紡いだ。この時、一角が瞼の裏に思い描いたであろう記憶を、弓親はきっと知っている。一角は一度、呼気をはさみ、小さく笑った。一角の視線の先、遠ざかっていく剣八の姿があった。
「さあな」
剣八は一度立ち止まり、両の手を伸ばし、朝露の残る青葉をかき分け、赤ん坊を抱き上げた。光が降り注ぎ、吹き抜ける風に野草が音を立てて揺らめく。時間は緩やかだ。赤ん坊は、抱き上げられた男の肩の上で、まるで安らぎを得たように、小さく丸くなっている。
遠ざかっていく二人の背中を見送りながら弓親はやけに清々とした一角の声に苦笑する。
「まあ、君をみていれば、大体想像はつくけどね、」
そして、自分はそんな彼の傍にいることを選ぶだろう。
剣八は一度両手で赤ん坊を抱えなおし、傷だらけの腕の中に抱え込んだ。赤ん坊は手をのばし、その頬の傷にそっと触れる。男は目を細め、甘んじてそれを受けた。獣は成りを潜め、男はただ赤ん坊を愛しむだけの人間へと成り果てた。
気付いたら一角は、両手で顔を覆った。
目の前の光景に、なんだこれは、と押し潰されたように呻いた。
あまりに綺麗すぎる。これはあまりに綺麗すぎるだろう。いっそ何かに縋りつきたかった。信じ仰ぐ神の名があれば、きっとそれを呼んだ。
だが、一角は胸の奥、掻き毟りたいほどの感情を声にする言葉を知らない。そんな言葉は知らない。この感情に与える名など。男が赤ん坊に向ける眼差しの意味など。子供の最後の声と共に、芽生えた真新しい何かなど。
「一角」
弓親が泣いていることに、小さく震えた語尾で悟った。弓親もまた子供と歩調を合わせ、手を取り、共に生きていたのだ、とやけにはっきりと気付いた。
「泣いても、いいよ」
遠く、赤ん坊が笑っている。
それは途方もなく、暖かい光景だった。
<NOVEL>