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甘露の花 |
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隊首会で、件の十三番隊隊士と、それを救う為に現世から尸魂界に進入したという旅禍の存在を聞いたとき、僅かに場を制した沈黙と、困惑と、諦観の中で、一人息を殺すようにひっそりと微笑む男が見えた。 部下の罷免を訴える浮竹の声は、何処か遠く、またそれに賛同し、頷く藍染の人の良さそうな、けれど、心底心を痛めたような優しげな表情も視界の端で、色をなくしたように霞んでいった。伏せ目がちの卯ノ花の瞼が、数度震える。何かを告げるかと思われた薄い唇は、けれど始終引き結ばれたままだ。きっと、この場の沈黙は抵抗という事を卯ノ花は知っている。狛村も然り。ただ、朽木のそれだけは、真意を黙する事で、ひた隠している。 此度の処刑の正当性を、二番隊隊長砕蜂は訴え続けた。どれも何処かで聞いたような話だった。最後には人道を説く浮竹との終わりのない水掛け論となって、答えは見出せないまま隊首会は終わった。帰り際、憔悴した様子の浮竹の後ろを歩いていた俺の傍までやってきた京楽が、小さな声で問うた。風がやけに緩やかに影の間を流れていった。 「日番谷君は、どう思う?」 問いは、感情を含まない静かなものだ。だが、思わず眉をしかめて隣の男を見上げた。意味が分からなかったのではない。単に、呆れたのだ。この男が、決して処刑の是非を問いたいのではないと、分かっていた。 「お前、それを俺に言わせるのか。俺がどう思おうと、お前はお前の好きにするんだろう?」 だから、せいぜいうちに迷惑はかけないでくれよ、 と、続ければ京楽は肩をすくめて苦笑してみせた。 「やれやれ、まいったねえ」 「少なくとも俺が知るお前は、そういう男だぜ」 「だから、困ってるんじゃないか。また僕だけ、怒られてしまうだろう?」 「よく言うぜ」 京楽は、そのまま答えを求めることなく、一度大きく蒼穹を仰いで、まいったねぇ、ともう一度同じ言葉を呟いて、去っていった。
きっと京楽の答えは、浮竹が部下の罷免に走った瞬間から決まっているのだ。答など、他人に求めた所で今更この男は変わるまい。この護廷十三隊の物言わぬ闇をこの男はきっと、知っている。俺が知っているように。だから、京楽は、件の隊士を助けるために奔走する。それは友人の為であり、部下の為であり、また自分の義の為でもある。京楽はその為に動ける。つまりは、是非を問う前から京楽というのはそういう男なのだ。正しさが振りまく害に散る命一つ、この男は見捨てられぬ。
だが、俺は?
振り返れば、遠く、回廊の先で、帰路を辿る三の染めが風に翻った。
あの男は、笑ったままだ。
二度目の隊首会で、あの男が迎撃した旅禍を殺さなかった、と聞いた時、また何の戯れか、と皆が思ったのは確かだろう。 殺せなかったのではない。殺さなかったのだ。
この男は面倒ごとには例えそれが命令であっても、口八丁でひょろりと手の中からすり抜けていく蛇のように、逃げて行こうとするのに、そのまま静かに流れ去っていくものには余計な手を加え、解かれない結び目のように、淀みを作っていくのを躊躇わない。総隊長の言及に、言い訳もない、と言い放った何処か人をおちょくった様な声に、苛立ちを感じたのは何もそれを追求した砕蜂に限った事だけではあるまい。 だが俺は不思議と怒りも苛立ちも感じなかった。ただ静かに、笑う事で他者を拒絶するこの男の表層を諦観するだけだ。理解じゃない。そこには事実だけがある。沈黙の中で問われ続ける処刑の是非。旅禍の生存というこの男が残した可能性は、そのまま件の十三番隊隊士の僅かな生存の可能性と等しい。まるで砂丘に砂金を落とすが如く、この男は、一縷の望みを捨てていったのだ。
だから、その隊士の姿を見た時、少なくとも俺はああ、これは駄目だと思ったものだ。
罪人の移送現場に居合わせたのは本当に偶然だった。 牢への移動で使われる長い回廊の真ん中で、進んでいくその背は流れる川の如く淀みない。犯した罪を只管問われ続けるその塔を見据える眼差しは凛として咲く花の如く揺るぎない。死へ向かっている。脅えることもなく、ましてや恐れる事もなく。真っ直ぐに死を見据えている。
――ああ、これは無理だ。
何よりもまずそれを悟った。
「隊長、何処に行かれるのですか」 思わず歩き出した背に、背後から副官の声がかかった。答えずそのまま突き進んで行く俺に、隊長? と戸惑った声が重なるが振り返らなかった。向かう先が、罪人の元だと知った松本の驚きと慌てようは、振り返らずとも察した。それでも、立ち止まれはしなかった。これはないだろう。ほとんど無意識に、今だ、遠くを歩く隊士の姿にそう呼びかけた。 正義や善意が必ずしも何かを救うとは限らない。少なくとも俺はそれを知っていたから、今だ危うい均衡の上に立ちながらも、是も非も答えることはしなかった。光が作り出す闇を知りながら、死神としての矜持と忠誠もそれなりに持っていた。それなのに、どちらに傾く事もなく諦観を決めた己の立ち位置が今何の前触れもなく揺れている。いとも簡単に。
だって、これはないだろう、朽木ルキア。 これは、ないだろう? どれだけの人間が、お前を助けたいと動いている。 お前はそうやって澄んだ眼差しで全てを諦め、目をそむけ、絶望をまるで宝石のように抱いて、自分の死を受け入れるのか。
「ああ、気にくわんなあ」 声を聞いたのはその時だ。ひらり、と目前でましろに染まる三の字が翻った。変わらぬ思いで、言葉を呟いて、市丸は俺の横をすり抜けて、朽木の元に歩いていった。思わず歩を止めたのは、この男がここに現れたことに驚いたからではない。 知ったような気がしたからだ。迷うことなく囚人のもとへ向かう市丸の背中が陽光に霞む。この男の笑みの中に隠された真意を、唐突に、知ったような気がしたからだ。
目の前で、朽木がくず折れる。 悲痛な声が、蒼穹に吸い込まれていく。
「あいつっ朽木にあんな酷い事!」 死を前にした囚人を相手に、その覚悟を揺さぶるなど、はたから見たら正常じゃない。花を手折るが如くいとも容易くそれをしてのけた市丸に、隣で松本がいきり立つように一歩踏み出した。 「やめろ、松本」 「だってっ隊長!」 「……いいから放っておけ」 「どうして、」 松本の憤りは至極最もだ。 理解はできまい。誰も。
ゆるり、と。 自らの言葉で、穿たれた心のままに、崩れる朽木の姿を背にして、市丸は目の前に立った。市丸は、背後の悲鳴をもろともせず、いっそ涼やかに笑ってみせた。 「や、十番隊長はん。そないな怖い顔してどうしたん?」 「市丸!あんたねえっ」 相も変わらず道化のような男だ。真意を知ったからと言ってこの男のやり口に納得がいくかと言われればそれは否だった。松本からの叱責を、笑い飛ばす男を見上げる。腹立たしいのは、この男が一番”それを分かっている”のだということだ。そして、こんなにも容易く、朽木の意志を覆してみせた。
「お前、――…試しただろう」 「何を?」
ようやっと押し出した声に、さらり、と問い返される。 答える代わりに市丸の細められた双眸から覗く真紅の瞳を見据えた。 この男は選ばせようとしているのだ。泣き崩れる姿を見せ、この声を聞かせ、お前は何を選ぶのかと言っている。試されたのは朽木ではない。ましてや正義や忠誠や道理ではない。思いを問われたのは、 「……――全部、」 にやり、と市丸が笑みを深めたのが分かった。踵を返した背に、隊長?と松本の戸惑ったような声が届いた。この男の意に染まるのは、腹立たしい。腹立たしいがそれに気付いた以上、もう立ち止まれはしまい。呼び止められる事はないと知っていたから歩き出す。不服はない。不服はないが、それでも、一つだけ伝えておかねば気がすまない。 「お前の思い通りに動くと思うなよ、市丸」 答えはない。 耳に届くのは朽木の言葉にならない声だけだ。いっそ、痛ましいくらいのその叫びに、けれど、俺は何処かで、
――安堵している。
「ついて来い、松本」 「は、はい」
罪を見据えた目よりも、全てを受け入れた凛とした背中よりも、この声は真意を語っている。
「処刑を止めるぞ」
生きたい、と。
――
ああ、そうだ。
あの時の朽木が全てを諦め死に向かっていた事に俺は気付いた。朽木の姿は、問われる罪に抱いた戒めそのもの。助かりたいとは思っていない。それを願ってはいない。 つまらぬ絶望を抱きながら、人は救われない。どれだけの人間が助けに走ろうと、生きたいと思わない人間は助けてやれない。希望を持たぬ人間に、俺たちは救いを与えてやれない。
お前は、それを知っていた。
俺がそれを知っていたことをお前もまた気付いたんだろう。それでいて迷っている俺に、お前はあの日、この道を選ばせたのだろう。
「なあ、冬獅郎。今回裏切った隊長達の中によ、市丸ってのがいただろう」 「ああ、いたな」
市丸が、旅禍の一人を殺さなかった理由に思い至ったのは、全てが謀りの上だったと知った後だった。黒崎一護を名乗ったこの男は、全く解せない、と言いたげな顔でううーんと首をひねった。全く、この男が斬魄刀百万本の殺傷能力をもつ矛を破壊した男と同じだとは到底思えない。 ひとしきり考えた後で、黒崎は、橙色の髪をひょこりと揺らして、告げる。 「俺さ、あいつと一度戦ったんだよな」 「ああ、そうだな、ジダン坊から話は聞いてる」 「あいつ、めちゃくちゃ強えのな。全然本気にしてないのが分かるんだ。殺そうと思えばいくらだってできたはずなのに、俺生きてるんだよなあ」 わかんねえよなあ。 どうやら、意図をもってそうされた、とは思い至らないらしい。俺はそれに小さく、笑う。全くこの男は鈍感なのか、敏感なのか。馬鹿みたいに一途で、こうと決めたら揺るぎなくて、護りたいものを、護りたいように、護る。本人の意思など全く無関係だ。 「黒崎、」 「ん?」 「お前あの時、ジダン坊を助けたんだってな。なんでそうした?」 「なんで、って」 「あいつは敵だろ、同情でもしたか?」 「そんな事関係ねえよ!」 声を荒げた自分自身に驚いたように黒崎が目を丸くして、わ、悪ぃ、と謝罪を紡ぐ。続いて少し困ったように、頭をかいた。 「いや、同情とか、よく分からねえけど。敵だとか味方だとか、そんなの関係ねえよ」 「……」 「助けたいから、助けた」 この男はきっと。 「それだけだ」 それしか信じていない。
そう。 だからあの日、お前は、この男を殺せなかったんだろう。 お前はきっと、この男が辿り着く先を知りたかったに違いない。 望んだ答をはっきりと得て、俺は笑った。 「と、冬獅郎?」 「礼を言う、黒崎」 「へっ?」 「あいつは俺の友人だからな。助けてくれて感謝してるぜ」 「ええっ」 「知ってるか?あいつに都会のルールを教えたのは俺だ」 「まじで?!」
一番、腹立たしいのは、市丸。お前は、希望を持たない事が致命的であることを知りながら、自分にそれを望まない事だ。あの日の朽木はそのままお前で、お前は絶望を抱きながら救われない事を知っていて尚、それを抱いている。
最早お前は、救われたいとは思うまい。 それを自らに望むまい。
それが、腹立たしい。
―――
消えゆく霊圧を感じて目が覚めた。随分と遠い過去を見たような気がした。途切れ続ける意識の最中、やけに鮮明に市丸の霊圧は肌を撫でた。 (ああ、お前、死ぬのか) 何の感傷もなく、それを悟った。死。あの男の辿り着く場所として、それはひどく納得のいく、あの男が望んだもののように思えた。 不意に、風が流れたような気がして、視線をさまよわせる。笑みがこぼれた。死にいこうとしている自分に向けたものでも、幼馴染を手にかけた自嘲でもなかった。 消えゆく霊圧の元に、随分と無鉄砲な、それでいて力強い霊力を感じたからだ。 「……市、丸、」 突き動かされるこの力は無垢だ。 助かりたいと思っていない人間がいることを知らない。人を救うことしか、考えていない。それしか、信じていない。 だが、その無鉄砲で単純な力が。嘲笑し、稚拙さに蔑んだこの力が、成したものはなんだ。他の誰でもなく、あの男一人だけが、救いを求めない人間を、それでも救い出したではないか。お前はあの男が辿り着いた先を見た筈だ。
「お前の、負けだぜ、」
それでも、誰かを救える、と。 今度こそ、お前はそれを自ら知る。
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