闇に、氷輪
守りたいという気持ちに嘘偽りはなかった。選択肢などいらない。答など初めからそこにあったからだ。思いが、通じなかったとも、また裏切られたとも思わない。選んだものが、守りたいと願ったものが、手の中に大事に納めてきたものが、ただ違った。それだけの事だ。
正義心が強い男だった。強さを挫き、弱きを救う。まっすぐなほどに純粋に、力を世の役に立てようと、より多くの命を救おうと、希望を胸に抱いていた。大儀を掲げた男だったのだ。草冠宗次郎という友人は。
だけど、俺は見たこともないこの広い世界の沢山の魂魄より、目の前の友人の方が大事だった。たとえ一人の命を失うことで百万の命が救えると言われても、心は変わらない。守りたいのは、目の前にいる人。この手の中にあるもの。それだけ。ただ、それだけ。変わらない。
草冠が、目の前に立つ。
目を奪うような光を弾く長刀を抜いて対峙する。
守りたいと強さを欲したのは同じだったのに、選んだものの違うあいつに、驚きはしなかった。悲しくもなかった。理解をしていた。それでいいと思った。あいつはあいつの守るべきもののために、思いを貫けばいい。嘘などいらない。そんなのは俺たちの間に必要ない。だから、俺は力を捨てたし、あいつは力を求めた。それでいい。納得している。
俺がしなければいけないことが今ここであるといったら、あいつが罪悪感を抱かないように、如何にあいつの剣に破れるかと言うことだけだ。わざと手を抜いたなどと思われれば、後々あいつの心に深い悔恨を残すかもしれない。それだけは避けたい。それが難しいのだが、不思議とできる気がしている。
草冠と同じように剣を構えながら、間合いをとり、
動いた。
湿った洞窟の中で鋭い金属音が、響く。
草冠、
俺、お前が大事だよ。
たとえ世界を敵に回しても、
お前が、大事だよ。
だから、お前はお前がしたいようにすればいい。
守りたいものを守りたいように守れる、そんな場所に辿りついてほしい。
だって、お前俺が守りたいと願っているものも一緒に守ってくれるんだろ。
お前は、そういう男だ。だから、怖くはねぇよ。
ただ、もっと話がしたかっただけだ。
くだらない話で、もう少し笑っていたかっただけだ。
名残惜しいけど、監視の目がこれだけきつければ時間を延ばしても怪しまれるだけだと知っている。
さよならは柄じゃないからいわねぇよ。
必要ねぇだろ?
元気でやれよ。
じゃあな。
――
きらり、と光る銀刀が視界の端に移りこんだその時だけ、脳裏に雛森と祖母の姿が浮かぶ。掻き消すように瞼を閉ざし、切っ先めがけて間合いに飛び込んだ。布地を裂く音が、肉を刺し貫く耳障りな音が、骨を断つ音が、最後に苦しげに漏れた呼気がたった一瞬で耳を打った。どろりと生暖かい血の感触が肌をつたう。咽返るような鉄の匂いが立ち上って、俺は目を開ける。
草冠の紫の双眸がやけにまじかにあった。小さく揺れる瞳の奥に、母親の帰りをまつ子供のような心もとない表情で立つ俺の姿が映りこんでいる。ふ、と息が漏れて草冠は笑った。笑ったように見えた。
それを見て一瞬で、何が起こったかを悟った。
「…馬鹿、やろッ…!」
俺を刺し貫くはずだった草冠の斬魄刀の切っ先は俺の脇腹の着物を裂いていた。代わりに、俺の手に持つ氷輪丸が、草冠の右胸の下を貫いている。長い刀身を弾くように赤い血が滴り落ちる。両手に重みがぐっと加わり、耳を塞ぎたくなるような刃に肉が埋まるズッ、という音を手の感触で知る。あっという間に合わさっていた視線が解け、前のめりになる草冠の体がそのまま俺の手の中に落ちるように倒れる。
ありえない。
こんな事はありえない。
今刺し貫かれていなければいけないのは、
血を流していなければいけないのは、
「…草冠、お前、」
俺のほうなのに。
「わ、」
わざと。
そう続くはずだった言葉が、飲み込まれる。草冠の右手が痛いほどに俺の腕をつかんだからだ。それは言っては駄目だと諭すような仕草。
立っていられなかったのか、それとも気付かれないようにわざとそうしたのか草冠の顔が肩に寄せられる。そして言った。吐息のような声で。
「お前は生きろ。」
この男を理解をしていたのだ。こいつは守る者のために力を捨てられない。俺は捨てられる。それだけのはずだった。俺が理解をしていなかったことがひとつだけあるとしたら、この男もまた俺を理解していたというただその一点。
俺が力を捨てることなど、友を選ぶことなど、わざと負けることなど、とっくに見抜いていたのだ。草冠は。
俺がこの男が剣を捨てられないと知っていたように。
俺が剣を捨てる事を知っていただけなのだ。
「草冠…!」
気付いたら、もう互いに剣など持っていなかった。縋るように預けられる体に両手を伸ばした。抱擁はたった一瞬で、戦いは決したといわんばかりに、その場で監視していた隠密機動衆にあっけなく引き離される。体が離れるその時、もう一度だけあいつの声を聞いた。
「…じゃあな。」
突然、紫の双眸が強い殺気を放つ。すさまじいほどの鋭い気配を振りまき、取り押さえる隠密機動衆の手の中でもがきながら狂ったかのように草冠は叫んだ。
「俺はまだ戦える!俺は負けてない!」
どれだけ手を伸ばしても、開いた距離は縮まらない。ただ狂ったような草冠の声が届くだけだ。
「あ…、」
草冠から向けられる俺への殺気はまるで憎い仇の前に立っているかのように鋭く、体を底冷えさせた。けれど心はそれがこの場で俺を助ける為の演技だと理解していて、それが鋭ければ鋭いほど俺を生かそうとするあいつの思いの深さを知って、理解した途端、涙が溢れる。
「く、さか」
手を伸ばしても、沢山の人の手で引き離される。無数の切っ先が目の前できらりと不穏に光った。草冠に向けられる刃。腹の底が鈍い痛みを訴えたかのように、ずしりと重くなった。それなのに、背筋にぞっと冷たいものが走る。
「やめろッ!俺が剣を手放すから!氷輪丸を捨てるから!」
声も、手も、届かない。
思いは、届かない。
「殺すな!!やめろーッ!!!!」
守りたいのに、
剣はさっき離してしまった。
今、ここになくてはならなかったのに。
目の前で
守りたいと願ったものが、
失いたくないと願ったものが、
友が、
命を閉ざす。
鮮やかな血飛沫が舞った。
草冠。
俺、知らなかったんだ。
お前も同じように俺を大事に思っていたこと。
今の今まで気付かなかったんだよ。
なんて、馬鹿なんだろう。
草冠。
今度は間違えねぇよ。
お前を守るから。
だから、もう一度だけ目を開けて。
血だまりに横たわるその姿に、生死を確かめるどころか近寄ることさえ許されず、草冠の体はあっという間に黒い布で覆われ目の前で運ばれていった。俺はどうすることもできず、ここから動く事さえできず、おびただしい草冠の血が残るその場で、ひれ伏す様に膝をおる。
「さあ、貴方も行きましょう。全ては終わりました。」
隠密機動の一人に手を伸ばされて、とっさにその手を払った。ぱん、と肌を打つ渇いた音がやけに大きく響いた。
「…かよ。」
「……は?」
「…これで、満足かよ。くだらない理で、戦わせて、俺にあいつを殺させて、お前らは満足かって聞いてるんだよ!!!!」
「…。」
「これで、氷輪丸はこの世でたった一本になった!!理を乱すこともなくなっただろう!!これで、満足か!!!」
気付いたらその場に打ち捨てるように転がっていた氷輪丸を手にとっていた。残っていた隠密機動の人間がひ、っと短い悲鳴をあげる。
「…一人にしてくれ。」
逡巡するそぶりをする彼らに、威嚇するように剣を構える。
「一人にしてくれ!!!!」
弾かれるように走り去っていく足音を聞いて、激情を抑えるように倒れこんだ。
耳に残る草冠の声が、また俺を泣かす。
お前は、生きろ。
お前は、生きろ。
お前は、生きろ。
まるで、呪詛みたいに。
そのとき、かつん、とひとつ近くで足音を聞いて、閉ざしていた瞼を開ける。そこにはもう全員いなくなったとばかり思っていた黒装束に身を包んだ隠密機動の人間が一人、横たわる俺を見下ろしていた。鼻先まで覆っていた黒布をそっと指先で剥ぎ取り、素顔を晒す。雛森よりも少し年上の女の姿がそこにあった。
「…あ、の…」
何故、女が一人この場に残ったのか、何がしたいのか、何が言いたいのか、何も理解できなかった。起き上がることもしないまま女を見上げる。
「…っ」
女の言葉は続かなかった。女自身何故ここに留まったのか、何を言いたいのか分からないというかのように戸惑っているように見えた。突然身を屈めた女に手をとられる。細い指先が、俺の手の甲の赤い線に触れた。冷たい感触がして、手の甲に見下ろした視線が、いつ負ったのか刀で切られたような小さな傷跡を見つけて、そうして女の指先が透明な薬をそこに塗りこんでいるのが見えた。女の手の中に握られた貝殻の中から独特の軟膏の匂いがして、それが血止めの薬である事を知る。
小さな傷に
女は震える指先で薬を塗った。
馬鹿じゃないのかと思った。
こんな傷、ほっとけばいいだろう。
痛くもなんともない。薬など必要ない。
女は軟膏の入った貝殻をそっと脇に置いて、息を詰まらせるように俺を見下ろした後で、瞼を伏せた。
「…ご、めんなさい。」
声は、言葉として聞き取るには小さすぎた。でも、そう言って聞こえた。
「…ごめんなさい。」
今度はしっかりと聞き取れる。謝ってほしくなどなかった。それで、この怒りが収まるとでもいうのか。そういって罵りたかった。けれど、出てきた言葉は、自分でも驚くほど力ない声で。
「…なんで、…あんたが謝るんだ。」
言った途端、女の目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい。」
女は答えなかった。そのまま薬を置いて逃げるように去っていった。
一人になると、今の今まで目の前にあった草冠の存在を感じた。声が、触れたぬくもりが、今そこにいるかのように鮮明に思い出された。名を呼びたい。ありったけの声で。あいつの名を、呼びたい。けれどそう思った途端思い出したかのように激情が襲い、激しい慟哭の声が漏れた。
胸が震えるほどに、あいつの名を呼びたいのに
抑えられない心がそれをさせない。胸を詰まらす涙がそれをさせない。
草冠、
草冠、
草冠、
俺、今お前の名前を呼びたいよ。
そのとき、ふわりと雪が舞い降りた。
いや、本当は雪が舞い降りたかのように、見えただけだった。見上げた空に氷輪が浮かぶ。冷たい風が不意に頬をなで、一人の男の姿が目の前にあらわれた。まるで雪を背負っていたかのように、ちらりと白い花びらのようなものが男の背後で浮かんでは消えた。
――主(あるじ)。
耳に直接響くような、そんな声だった。
――我が主。
手に持っていた斬魄刀がまるで共鳴するかのようにキン、と手の中で鳴いた。キィン、キィン、鈴を震わせたような音を聞いて、目の前にいるのが斬魄刀の姿なのだと気付く。
「そう、か。」
涙に濡れる、情けない声だった。こぼれる涙はとどまることを知らず、力尽きた体は起き上がることすらままならない。ただ手に触れる斬魄刀からかすかな思いが、伝わる。それだけが今この場で苦しい息を吐き出しながらも言葉を紡いだ理由だった。
「――お前も、一人になっちまったのか。」
ふわりと、冷気が横たわる俺の体を取り巻いた。凍てつくほど冷たい空気であったはずなのに、それは身を包んだ瞬間に人のぬくもりのような熱を伝えた。取り巻いたのは風ではなく、氷輪丸の腕に抱えられたのだと気付く。斬魄刀にぬくもりがある事が、それがさっき倒れる瞬間に触れた草冠のぬくもりとそっくりな事が、また俺に涙を溢れさせた。
――主、我が名を。
たった今大切なものを失ったばかりのこの瞬間に、
自分が一体何を守れるのか。分からなかった。
けれど、託されるかのように手に残った一本の斬魄刀をまるで誓うように、強く握り締める。
人のぬくもりのような温かさをその身に感じながら、もう誰も失いたくないと強い思いの先で、嗚咽を殺して、――呼んだ。
願わくば、
この手にとる剣が、
大切な者達を守る為に、与えられる力でありますように、と。
一心に祈って。
「……氷輪丸!」
夜空に浮かぶ、氷輪だけが静かにそれを見ていた。
凍てつくような冷たさが大気を満たす、真冬の夜だった。
(完)