陽だまりに似ている 1
今日はもう上がって早く休んで下さい。と何度か聞いた同じ言葉を、同じように何度も聞き流してきたが流石にその回数が両手をゆうに超えてからは、隊首室の硬い椅子から重い腰をあげるしかなかった。半ば追い立てられるように十番隊舎をあとにして素直に私室へ向かったのは、やはり何処か本調子でなかったからなのかもしれない。倒れこむようにベッドに転がり込む。考えてみれば私室のベッドで眠りにつくのは、旅禍騒ぎの件から、初めてだった。それなのにふわりと肌をなでるシーツは陽だまりの匂いがした。まどろみの中で僅かな意識で霊圧の痕跡を辿っていると当たり前のように松本の凛とした霊圧が鼻先を掠めて、そうか、入院をしていた間にシーツを干して整えてくれたのはあいつか。そう思っているところで、意識は瞬く間に落ちた。翌日の目覚めが悪いはずもない。早朝の光の、あまりの白さに目を細めながら、からりと窓を開けると、思わず背筋を正したくなるような静謐な風がさらりと肌をなでて、日番谷は長い息を吐き出す。同じだけの長さで今度は息を吸うと、白さの残るぼやけた青空を見上げて、からりと窓を閉め、歩き出し死覇装を手にとった。いつもよりも多少早い出社はそれでも悪い気分ではなかった。混雑する道を悠々と歩くことができる。何より忙しない空気に侵されないのは気持ちがいい。昨日、退院したばかりの救護詰所の前まで来て迷わずに扉をくぐる。当直の四番隊員に声をかけた。
「よう。」
「あ、おはようございます。日番谷隊長。お早いですね。」
「今、大丈夫か?」
「はい。大丈夫ですよ。他の方は眠ってらっしゃるので、静かにお願いします。」
「わかってる。」
いつもなら沢山の足音が重なり合う歩きなれた廊下はひとりの足音を静かに残していた。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、脇を通り過ぎていく白い扉の数を心のうちで唱えながら日番谷は歩を止めた。いつつ。押し開く扉がわずかに軋む。ふわりと花の香りが鼻先を掠めた。
「雛森」
呟いた言葉が届くはずもないことは知っている。部屋の奥柔らかく光の降り注ぐ窓辺にあるベッドに眠っている彼女の姿は昨日となんら変わることなく、其処に在る。静かにベッドの脇に置かれた簡易椅子に腰掛けて日番谷は雛森の細く血の気の戻らない手のひらをなでた。その体温も昨日となんら変わることはなかった。声をかけてみてください。何度でも何度でも。意識の戻らない雛森をただ見ていただけの自分に声をかけたのが誰だったかは忘れてしまった。言葉だけがやけに耳に残った。触れた手のひらを重ね合わせる。幼さの残る二人の手は、流魂街で暮らしていたあの頃と変わらない、けれどもあの頃から随分と遠くまできてしまったようにも思う。かける言葉はいつも見つからなかった。ただ、手のひらの体温を確かめるように触れ合わせるだけだ。それでいい。それだけでいい。そうして日番谷は来たときと同じ足取りで部屋をあとにする。小さくあくびを噛み殺した四番隊員の横をすり抜け、また来る、と告げると穏やかに笑みを返して小さく頷いた。四番隊舎を後にした日番谷の背中で十の羽織が小さく翻った。
「日番谷隊長」
控えめに背後から声をかけられたのは四番隊舎を後にして剥き出しの長い回廊を歩いているときだった。聞き覚えのある声。何よりその霊圧を知っていた。
「おはようございます。」
「早いな。今から出社か。」
振り向くと長身の男が静かに微笑んでいる。十番隊の五席だった。
「いえ、私は」
そういって脇に指していた竹刀を軽く持ち上げてみせる。日番谷はああ、と呟きもう一度男の顔を見上げた。
「朝稽古か」
藍染たちの謀反をきっかけに周2日だった朝稽古は周4日になった。口を合わせて申し出たのは他でもない隊員達からで日番谷はただ修練場の使用許可を与えただけだった。五席は現場監督を名乗り出て隊員たちの指導にあたっている。今日はどうやらその日のようだ。
「よろしければ修練場へいらっしゃいませんか。隊員たちの士気も上がります。」
仕事が始まるのにはまだ時間があった。断る理由はない。連れられるように修練場に向かうとすでに稽古に励んでいる隊員たちの快活な掛け声が耳に届いた。日番谷の姿を見るやざわりと場内の気配が揺れた。五席が静かに、稽古を続けて、と告げるとひとり、またひとりと集中していく。茹だれた気配は何処にもない。
「日番谷隊長、体を動かしてみませんか。」
聞かれて答える前に五席の手から一本の棒を手渡された。再びざわりと揺れた場内の気配が一斉に両端によって場を作る。いや、俺は。断ろうとして手に持った棒を見てああ、と納得がいった。それは所謂剣舞用の細い木刀のようなもので後ろには細い布がつけられている。退院したばかりの日番谷に無理をさせる気は端からないらしい。あくまでリハビリにと言ったに過ぎなかった。五席は場内の真ん中まで歩を進めると日番谷と同じ木刀を片手に笑った。
「八の舞を」
一から十まであるソレは霊術院に通った者であれば皆知っている。毎年行われる霊術祭で必ず踊るものだった。感覚を研ぎ澄まし剣の切っ先まで力を込める。集中力を養うのに絶大な効果があった。日番谷は苦笑交じりに歩を進め五席の前にたたずむと視線を重ね合わせ緩やかに礼をした。
踏み込み、はずして、重ね合わせる。二人の剣舞から構成される八の舞はタイミングを僅かでも狂わせればとたんに相手の切っ先を体に受けて怪我を負う難しいものだったが、日番谷も五席も寸分も狂わせることなく踊りきった。少しだけ息のはずむ体で再び向かい合わせとなり礼をすると誰からともなく歓声が起こり、制するように五席は再び稽古に戻って、と声をかけた。
「お前うまいな」
木刀を五席に手渡し告げると恥ずかしそうに微笑んだ。
「日番谷隊長も」
「いや、もう大分感覚を忘れてる。やり始めたら思い出したけど」
「私は時々一人でもやるんですよ。」
快活な掛け声が戻った場内に再び視線を戻してその光景を眺めた。会話もなく佇んで、しばらくしてから日番谷はそろそろ行くと五席に告げ、歩き出そうとした。その背中をやはり控えめに呼び止められた。
「なんだ」
振り向いた向こう側に強さを増した日の光が降り注いでくる。じきに人の声はましてまたいつもの日常が始まる。逆光で少しだけ表情のかげった五席がそれでも日番谷には緩やかに微笑んでいるのが感じられた。
「一度聞いてみたかったことがあるんですが、」
「・・・ああ。」
「隊長は、」
何故、死神になろうと思ったのですか。
続きの言葉は稽古の終了を告げた隊員の声音と重なり合った。五席は苦笑をもらし、少しだけ会釈をして、また機会があるときに、と質問の答えを促すことはせず、稽古を終えた隊員達の前にたった。その背を見送りながら日番谷は歩き出す。修練場の扉をくぐると、隊舎に向かう死神たちと何度もすれ違った。その背を追うように日番谷自身も歩き出す。
―守れやしないかと、思っただけさ。この手の中のモノくらい。
向かう先は十番隊舎だ。
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