陽だまりに似ている 2
九番隊舎と十番隊舎を繋ぐ回廊は日の光を浴びてキラキラと光を反射してみせた。驚くほど丁寧に磨かれた床は、曇りなく姿見を写し取る。鏡のようだった。おはようございます。何度もすれ違う死神におう、と短い返事を同じように何度も繰り返し、視界のずっと向こうに見慣れた隊舎の姿が見え始めると自然と歩く速度は速まっていった。今日も忙しくなる。三人の隊長席の空白が日常にどんな影響を及ぼすのかは容易く想像できる。かろうじて隊としての機能を留めた三番隊と九番隊は、副官の意地だっただろうが、それでも他隊のフォローが必要なことには変わりない筈だ。五番隊に至っては殆ど機能していない。のんびりしている暇はなさそうだった。
「日番谷隊長」
随分と遠くで、それでも凛とした声は確かに届いて日番谷は呼ばれた方角に視線を彷徨わせる。回廊を外れた西の先に何人かの死神がこちらに手を振っているのが見えた。十番隊員だ。隊舎の入り口へ向かっていた足は自然とソレて隊員達の前で止まった。
「何やってんだ、お前ら。」
回廊から見下ろす形になるその場所には、小さな庭園が控えめに広がっている。少しでも目の届くところに憩いをと先代の十番隊隊長が作ったものだった。隊員達は一様に袖をたくし上げて、日の光の下で泥にまみれて汚れていた。みんな、笑っている。
「今から、水いれるんですよ。」
ほら、ここに。
隊員がさした指先は水の張っていない虚池だった。大きな石で囲まれてかろうじて池としての名残を残していたが、ぬかるんだ土と苔が覆い尽くして、よくよく目を凝らしてみなければ其処が池であったなど気づかない。日番谷自身もこの場所に池があったことなどすっかり忘れてしまっていた。何年か前はこの場所は冷たい水をたゆらせていたのに。隊員達は苔を洗い落とし、新しい水を入れるために池の周りの石を朝から磨いていたのだそうだ。そういえば予算の都合でずっと許可を与えられずにいた水張りにようやく首を立てにふったのは、一ヶ月前くらいの話だった。
水を入れる時、ぜひ立ち会って下さいと言われ、いや、そろそろ隊舎に行かないといけない、と断るとまた別の隊員が最初の水入れの時だけでもいいからぜひにと言う。返事に困っていると、そんなに時間を取らせはしませんから、お願いします。とうとう押し切られる形で頷いた。綺麗に汚れを落とされた石はこんなにも白かったのかと見紛うほどに最初と同じ物質であるのが信じられなかった。珍しいものをみるように隊員達の作業を眺めていると作業を終えたひとりの隊員が近づいてきてこう告げる。
「あの時は、ありがとうございました。」
「あの時?」
何のことか知れない。促すように隊員の顔を見ていると、汚れた手を手ぬぐいで拭いてから男は首につけられた細いチェーンを日番谷の前に翳して見せた。そこには何の装飾もないシンプルな一つの指輪が繋がっている。しばらくそれを見て日番谷はああ、と一つ頷いた。池の水を抜きたいと、口上で慌てて告げられたのはもう、何年か前のできごとだ。突然のことに事情を飲み込めずにいる日番谷に言葉が重なる。妻が大事な結婚指輪を池の中に落としたと泣いている。手探りで探したが見つからない。池の水を抜いて探したい。許可を下さい。
「礼を言われるようなことはしてないぜ。俺は頷いただけだ。」
池の水を抜くと簡単に言ってもそれ専用の機械を用いての許可までは与えられなかった。十分です、と告げた男が仕事を終わらせてからの夕暮れに一人バケツを用いて水を外へ流し指輪を探している姿を、残務処理に終われながら見ていた。指輪を探す一人での作業がしだいに二人と増え、三人になり四人になったところで日番谷はこの場所に明かりを灯って訪れ、松本に差し入れを持ってこさせた。結局あの時指輪は池の中からは見つからず、落胆していると、石の隙間できらりと光るものを誰かが見つけ、石の隙間にぴたりとはまった指輪を発見したのだった。気の抜けた、あまりにもあっさりとした発見に誰からともなく笑った。あの日から今日に至るまでこの場所はずっと虚池だった。
「いえ、あの時隊長に許可を与えられなければ、結果として見つかりはしなかったでしょうから。」
遠くからおーいと低い声音が届く。隊員と共に視線を向けると、透明なタンクに透き通った水をたゆらせて歩いてくる作業着姿の男達が見えた。重そうなタンクはそれでも水の冷たさを想像させて、気持ちがいい。零さないようにと慎重に歩を進める男達を尻目に石を磨いていた隊員達が次々と回廊に場を移して水が運ばれてくるのを待った。形式的な挨拶を交わし、それじゃ、水いれやすね。重いタンクを数人で傾け、磨かれた窪みの中に注がれるのを眺めた。ぽちゃん。ぽちゃり。最後の一滴まであますことなく注ぎいれると、誰からともなくため息がもれた。揺れる水面でキラキラと日の光が反射した。いつまでも輝くそれは、とても美しいものに思えた。
「綺麗だな。」
「はい。」
虚池となってからこの場所に近づく者は次第に減って視界に移すことも少なくなっただろう。荒れた庭園を見ていれば憩いなどといって心を休めれた者がいないことは想像できる。ずっと止まってしまっていたのだ。この場所は。死んでいたのだ。立会いありがとうございますと頭を下げた隊員に言葉をかけ日番谷は歩き出す。瞬きをすると背を向けた水面が同じだけの鮮明さで脳裏に蘇って、日番谷は静かに微笑んだ。
そうだ。いつかこの場所で鯉を飼おう。池の周りには苗を植えよう。凛と咲き誇る。そんな花にしよう。確かに息づいて、続いていく。そんな命のあるものがこの場所にはとても、似合う。
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