糸し糸しという心

第一部【壱】

 

 土の中の硬い木の根に、がつり、と当たる音がしたと同時、手にしていた枝が折れた。深い茶の地面の中は乾いて硬く、太く歪な木の根が張り巡らされているだけだった。折れた木の枝を、掘り起こした土の上に投げやって、木の根にからみつくように伸びた細い草の根を辿って両の手で硬い土を再び穿った。伸びきった十本の爪に黒い土がこびり付き、肉と爪の間から赤い血が滲み、一本の爪が割れ、二本の爪が取れたところで、枯れた木の枝のような芋を三個掘り当て、山を降りた。

 麓に辿りついたところで背後から人の気配を感じて振り返る。やせこけた子供がそこにいた。性別も分からぬ。乾いて乱れた灰銀の髪から覗く、じとり、と睨みつける両の眼と視線があった。もしこの世で一番初めに見た美しいものは、何かを問われたら、今ならば子供の目と答える。それは、この世界に来て「己」という人間が初めて見た殺戮以外の色だった。玉。ずっと先の今という未来に、子供の目がその宝石の名と同じ色と知る。

 坊主、名は、

 そう、問いかけて声が途切れる。がつり、と額に何かがぶつかる音がして、こめかみを走りぬけた痛みに目を閉じた。呻きは身の内から。火花が眼前で散って、子供に石を投げられたのだと知る。沸く憤怒に芋を握った手が震える。

 何しやがる、

 そう叫んで見知らぬ子供を見下す。土と切り傷で汚くなった子供の足がためらいもなく胸を蹴り上げようとしているのが見えた。咄嗟にそれをよけようと身を捩ったが、視線が、子供の乱れた髪から除く双眸を捉えて身動きが取れなくなった。一瞬の躊躇のうちに胸を蹴られ、肋骨が軋む音とともに膝を折った。再び蹴り上げられる小さな足を見て、諦めとともに小さく息を吐き出した。腹を蹴られ顔を蹴られ足を踏まれ、六度目の衝撃を数えたところで、子供は荒い息をしながら動きを止めた。返り討ちなど容易いことだ。何度殴られようと蹴られようと、子供のやせ細った手足では打撃には程遠い。せいぜい野犬に足を噛まれたくらいの衝撃か。子供が息をつくのを待って、があああっ、と獣のように吠えて立ち上がった。子供はびくりと恐怖を感じて体を振るわせ尻餅をついた。先ほどまでの勢いは何処へやら。腰を抜かすなど気概が足りない。

「…ふん。今度は食い物がほしいなら、”どうか食べ物を分けてください、おねがいします”って言うんだな」

 血の味のする唾を吐いて、ずきずきと痛む横腹を押さえ、手の中にあった芋全部、子供の腕の中に押し付けて、痛む足を引きずって去った。

 どんな人間も犬畜生以下の存在に変える。子供の美しい目も、餓えの前には餓鬼のそれ。ここはそんな世界と知っていた。

 去った後、子供の碧玉の目の色を思い出して、名を聞けなかった事が少しだけ悔やまれたが、振り返らなかった。

 

 土の中の硬い木の根に、がつり、と当たる音がしたと同時、手にしていた枝が折れた。深い茶の地面は乾いて硬く、太く歪な木の根が張り巡らされているだけだった。折れた木の枝を、掘り起こした土の上に投げやって、木の根にからみつくように伸びた細い草の根を辿って両の手で硬い土を再び穿った。伸びきった十本の爪に黒い土がこびり付き、肉と爪の間から赤い血が滲み、一本の爪が割れ、二本の爪が取れても、掘り起こされるのは枯れた木の枝ばかりで、求めた食べ物はみつからなかった。三日前、この山で芋を探り当てたのが最後の食べ物だった。川の水で腹を満たすにも限界で、空腹からくる眩暈でぐらり、と世界が傾いでそのまま硬い土の上に寝そべった。灼熱の光。じりじりと皮膚を焼かれる痛み、むやみやたらに伸びきった木々も、日を遮るには足りない。全く何の役にも立たない。腹立たしい。このまま体中の水分を奪われて干からびて死ぬ。そんな死に方は滑稽だがここはそんな滑稽な人間が吐いて捨てるほど程いる。その中の一人となるだけだと思ったら笑いが込み上げ、笑ったまま目を閉じ暗闇に身を落とした。

 目が覚めたのは口の中に冷たい水の感触を感じた時だった。肌を焼く太陽の光も熱も見えず、あるのはそれらを遮る見慣れぬ天井と、生ぬるい風、そして、子供の碧玉の瞳。身動きの取れないこの体に賢明に唇に碗の水を含ませ、水を絞った着物のハギレを額に乗せたところで、そこにいるのがつい先日己を襲った子供である事を知った。良く見たらくず折れた家屋だ。子供の背後に同じようにやせこけた子供が数人じとり、と柱の影からこちらを窺っていた。

 子供は碗の中からひとすくいの芋を取り出し、おずおずと、「コレ、」とすり潰し、湯で溶いた芋を匙で唇に押し当てた。

「食べて、」

 味も分からない。ほとんど湯だけのそれに芋のかけらが数個。奥歯でしゃり、と噛み潰す。胃にゆっくりと入っていく食べ物が染み入るように広がる。生きている。引き攣る胃の痛みにそれを知る。死の淵を辿り、それを覚悟し、あるいは諦め、目を閉じようとも、再び目覚め辿り着いたのは肥溜めのようなこの世界、だが、コレまでの世界にはなかった、「子供の目」があった。両の双眸は心配げに揺れ時折慈愛すら覗かせ、最後の芋の一欠けらさえ噛み下すのを待った。

「美味いよ、」

 美味くもないのにそう告げた。そういう気分だったのだ。目の前で子供が泣きそうに笑った。ああ、きっと今俺は同じ顔をしていると、強張った頬を引き攣らせながら思った。

 子供と暮すようになったことに深い意味はない。命を助けられた恩義もあったし、何より子供の目を見ているのが好きだった。海の青とも空の青ともつかない。新緑の碧にも湖面の蒼にも見える。それら全てを内包したもののようにも。

 子供は霊力を持っていた。そして、およそ等しい力を持った他の子供を集め徒党を組んで日々の飢えを凌いでいた。此処(世界)は子供が生きるには過酷で残忍で、あの日たった三個の芋欲しさに己を襲ったのは全ては他の子供達の腹を満たす為だと知った。剣を振るうようになったのはその頃だ。共に暮す子供を護る為でもあったし、何より戦う事を好む性質が己の中にはあった。血に餓えたそれとも凶器を好むそれとも違う。強いて言えば強さへの探求心。それは時折、生きる意味を問うくだらない自分を、忘れさせた。不敗を貫く日々の始まりだった。

 夜盗に襲われた行商人たちを見つけたのは子供だ。まだ夏を控えたじとりとした湿気を含んだ夜だ。此処に住む大人たちは皆盗人で如何に他人から金を、食い物を奪うかと言う事ばかりを考えていた。夜盗は村の大人たちだった。子供が擦り切れた着物の端を掴み襲われた行商人と自分とを交互に見やって、名を呼ぶ。助けてあげて、とそう言っているらしい。子供は自らが護ると決めたものに対しては自分が犬畜生に堕ちることも厭わないのに、目の前で繰り広げられる殺戮には小さな胸を痛めて救いを求めた。目の前で人が殺され、女子供が犯されては目覚めも悪い。請われるまま子供に差し出された剣を取った。ただ、それだけのこと。後は本能が目覚めるのを待つ。ひたすら。強さを請う己を。

「驚いた」

 頭上から降ってきた声は、男のそれとも女のそれとも違った。襲われた行商人の全ては逃げ出していた。荷台を襲った賊だけが、ぬかるんだ地に額を伏せて腹や折れた足を押さえてうめき声を上げた。闇の中で影が動く。影は、もう一度感嘆を含んだ声で同じ言葉を繰り返す。

「驚いた、」

 ひらり、衣擦れの音と共に頭上の木から人が舞い降りる。逃げ遅れた行商人が一人残っていたらしい、と思った矢先、やけに煌びやかな着物の赤が視界で翻った。

「容姿は僕の好みとは掛け離れているけど、剣を持った君はとても美しいよ、」

「あ?」

 女とも、男とも、分からない。ころころと玉が転がるような声で闇から現れた人はにっこりと笑って告げた。

「僕の名は――」

 嵐は去らぬらしい。いや、一陣の風だけを残して去ってしまったのか、本当は。

 後に生涯の友となる弓親との出会いだった。

「行くところがないんだ、ここに置いてよ」

 子供達と暮すくず折れた家屋に弓親が転がり込んだのはそんな理由だった。弓親は子供達のリーダー格でもある、碧玉の双眸を持つ子供を前にしてにっこりと笑う。おいで、と手を一振り、歯の折れた櫛で子供のくすんで汚れた灰銀の髪を梳く。

「行くところがねえって、お前一緒に旅してた商人はどうした、お前の仲間だろう」

 無防備に弓親に身を任す子供を見ながら告げる。もっとも、この男を一人残して真っ先に逃げ出す辺りその辺の意識は希薄なのだろうが。気分良く子供の髪をすいていた弓親は、言葉に憎憎しげに表情を歪めて吐き捨てるように、あんな悪趣味なやつら、と悪態をついた。

「ふん、ただ僕はあいつらに売り飛ばされそうになっていただけだよ。仲間なものか」

 男が売り飛ばされる場所がある事を知識としては二つ知っていた。ともに奴隷という意味では大差がない。己が差し出すものが力か、性か、ただそれだけの違いだ。女のような装い。女よりも遥かに艶のある肌。この男が辿ろうとしていたものが何のかは容易く知れた。得体の知れない男ではあった。だが、子供は懐いていた。結局この男が留まるか否かなどこの子供がその者を好きか嫌いか。ただそれだけだ。

「そうか、なら好きにしな」

 夜の帳。人のぬくもりを求めるように子供は弓親の膝に縋って眠りについた。

 吠えたける咆哮よりも、草笛や水琴を。涼しさや動きやすさよりも、布の質や文様を。如何に早く剣を振るうより、如何に重く強く腕を振り払うより、例えば爛漫に咲き誇る花が散り薄汚れた着物に纏わりつくそれらをはらう指先一つの動きを愛しむ。弓親はそんな男だった。

 

 

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