糸し糸しという心

第一部【参】

 弓親は己が剣を握らない本当の理由を告げなかったが、その意志は強固なものだった。どんな窮地に立たされようと、ただの傍観者であろう、とするその姿からそれは知れた。未だに不敗を貫きはしたが、目の前に強いと認識する人間がいて、ましてやその者が戦いに応じないとあっては、勝ち負けの括りなど、なんら意味のないものに思えた。

 獣の鳴き声を耳が拾って瞑目は途切れた。唸る風の軋むようなその声が己の外側から鼓膜に届いたものなのか、それとも身の内から低く発せられたものなのか、咄嗟には分からなかった。もう何度か、こんな風に獣の声を聞く。それは森に自生する狼の声であることもあるし、体の奥深く、己に呼びかける声であることもある。前者の場合は大概が縄張り争いから起こる獣同士の威嚇の声である事が知れたが、後者、己の体の奥深くから鼓膜を震わすその声が何なのかを己は知る術はない。声は遠い。振り返り、空を見上げる。数刻前までの蒼穹は今はかげり、雲が天を覆いつくす。

「…一雨きそうだね」

 乾きかけた洗濯物を手にとって弓親が告げた。そうなる前に、家に帰ろう、とその背中が言っている。ばさばさと、畳まれていく衣擦れの音の合間に、再び獣の声を聞き、今度は立ち上がる。どうやらこの声は目の前にある暗い森の中から聞こえる獣の声らしい。数匹の野鳥がばさばさと、飛び立っていく姿に目を細めた。夜はまだ遠い。それなのに見据えた空には今まさに闇が落ちそうな色濃い鈍色が広がる。

「…何?」

 不穏な気配を感じ、声を発したのは弓親だった。鳥が飛び立っていった空を振り返り、辺りを探るように小さく呟いた。爆音を聞いたのはすぐだ。それは、炎が爆ぜるときの音にも、地響きに揺れる大地の軋む時の音にも聞こえた。聞こえた、と思った時には走り出していた。背中で弓親が自分を呼びとめる声を聞いたがそれは既に遠いものとなった。暗い森。見据えた先の闇の中。子供と暮す家屋のある方角から濛々と土煙が上がっていた。

 雨が降っている。それはざわめきや空気の軋む音や走る己の心音すら覆い隠すようにとめどない。ぬかるんだ土に足を取られた隙に、二匹の野犬に襲われ、一匹を打ち倒し、一匹は戦わずに逃げた。どんな敵の前であっても逃げ出したことのない自分が。それよりも先、駆けろ、と内なる声が告げる声に従って只管に走っている。やがて家屋に辿りついた。今にもくずおれそうなそれは、もう随分と長い月日、子供と暮したその場所だった。その時、雨の音を縫うように獣の声をまた聞いた。それは低く、短く繰り返され、最後に一声、大きく天に向かって吼えたけた。敵への威嚇にも、また同胞へ向けての鎮魂歌のようにも聞こえたその響きは、全てが終わった後に、子供の声と知った。扉を開いた。

 

 殺戮を知っている。それを生きていたからだ。自分を取り巻く全てはその狂気と血の色だけだった。悲しみを知った人はそれを生きる人となる。悲しみを見た人はそれを伝える人となる。真理を知った者が、真理を生きるようになるように、己は殺戮の中を生きる人間だった。それを知っていたからだ。それしか、知らなかったからだ。

 

 初めに目についたのは赤だ。それは熟れた太陽の焼き切れるようなそれよりももっと深くどす黒く濁って足元に広がった。続いて、匂い。むせ返るようなそれは、食べ物が腐った匂いよりも生々しく、鼻を刺激し、一瞬で嗅覚を麻痺させる。それから刀。暗がりの中でも銀光を放つそれは、妖しく目の前で翻った。そして、人影。床に散らばる肉片は、既に身動きもなく、屍と呼ばれるそれ。フー…、フー…、と低く唸るような声が部屋の隅から聞こえる。姿は見えない。目前にいる男達の背中がその姿を遮っているからだ。ただその声は切迫し、何処か切ない。家の中に獣がいる、と思ったその時、見知らぬ男達の合間から子供の姿を、子供の碧玉の双眸を見た。子供が、いる。その傍に行こうとして、一歩踏み出した足がぴしょん、と水を弾いた。それは赤く己の足を染め上げた。血だ。転がる肉片に足先が触れ、見下ろす。

 

 

 

 陣太

 

 

 

 呼んだはずの声は音にはなっていなかった。目があったと思ったそれは生気のないただの硝子球のように、天井を見上げていた。視線を巡らせば狭い家屋の床に同じような人の形をした塊が転がっている。それはどれもつい数刻前まで、己の名を呼び笑いかけてきた、共に同じ家屋の中で暮らし、歩調をあわせて生きてきた子供達の顔をしていた。それなのに、その姿はもう生きていない者の見せるただの残骸だと己は知っていた。床に散らばる肉片の意味を。血の海の意味を。目の前にいる刀を握った男達の意味を何一つ知らない。知らないまま、だが、これは殺戮だ、とそのことだけは解した。これは己の知る、己が生きてきた狂気の世界だったからだ。

 その時、耳に届いた低く唸る獣の声を、咄嗟に自分の声だと錯覚した。この声は、この狂気の前に気が触れ獣のように鳴く己の声だと、そう思ったのだ。

 だが、そうではなかった。ううぅぅう、と低く唸り声を繰り返したその声は苦しげな長い呼吸の後、その声を飲み込んだ。子供が一人、男達を相手に戦っていた。

 部屋の隅、子供が古戦場から拾い集めた使い物にならぬ剣。それに駆け寄るような仕草で一人、床に事切れた陣太の姿。部屋の中央で身を寄せあって、庇い合うように倒れこんだ子ども達。そして、あの碧玉の目を持つ子供だ。まるでそれら一切を護り、庇うように敵意と脅威の男達の前に立ちはだかる。その時見せた子供の瞳の強さといったら。それは時折己にみせた慈しみのそれとも、ましてや出会った頃にみた餓鬼のそれとも違う。ただひたすら強い意志だけを称えた目。その時の子供の碧玉の瞳の美しさを現す言葉を知らない。目は合わなかった。子供は、赤い血を唇から滴らせ、フー…、フー…、と苦しげに息を吐き出し、ひと声、咆哮を上げ、敵意の刃の中に身を躍らせた。

 

――もう、守る者もいなくなっても何を貫く。

 

 

 

 

 その時眼前に現れた、白、を、生涯忘れまい。

 突きつけられる現実の中でそれは尚いっそう鮮やかに目に飛び込んだ。目の錯覚だと、咄嗟に思った。まだ梅雨も明けていないこの時分。それを見るには早すぎる。ましてや此処は屋根のある家屋。ありえない。それなのに、何度瞬きを繰り返しても、それは無数に天井から降り注ぎ、頬を濡らす。雪だ。家の中で雪が、降っている。淡雪のようなましろのそれは無数の塊となり、およそ人外と評される獣の姿となって、男達に襲いかかり、空中で霧散して消えた。ひとなで、頬をかけぬけた凍てつく風に、思わず目を閉じ次に目を開いたその時には、その獣は霧のように跡形もなく消えた後だった。最後の雪片が手の甲に落ちて解けて消える。初めてみる子供の霊力だった。

 見知らぬ男たちはその力の前に恐れ慄き、地に根が生えたように身動きがとれないでいる己の体を押しのけ戸口から逃げ去っていく。剣を握らなければ。それなのに、子供の姿から目が離せない。この冷徹な力の前に、己もまた恐れ慄いているのだろうか。男達が逃げ去っていった戸口からがたり、と音がしてこの何処までも残酷な世界から呼び覚まされる。背中で弓親の悲鳴に似た声を聞く。視界の隅、子供が力尽き倒れて行く姿を最後に、剣を握り、家屋から飛び出した。

「待て…!」

 名を呼び、止められるも弓親の声などもう聞こえはしなかった。逃げた男たちを追った。獣の声がする。今度こそ、自分の声だった。一人見つけ、背中から命を絶つ。命乞いをした二人目は柄で肋骨を叩き折る。折れた骨が肺に刺さり、苦しげに止めを望んでも振り変えず三人目を追う。最中、背後に回りこんでいた男の一人に後頭部を激しく何かで打ち付けられたが一歩二歩よろめいて、振り返り様そのは喉仏を潰す。殴られた後頭部から血が滴り流れたがそんなものは気にもならなかった。剣を握らなければ。己を突き動かすのは、純然たる殺意だけだ。やがて、逃げ遅れた最後の男たちも見つけその前に立ちはだかり、剣を構え切りかかった。男たちはどれも手練で一人斬り、足と肩を切られ、二人目の腕を落とし、脇腹を抉られ、三人目は切りかかる前に背中を切りつけられ、もう此処で死ぬのだろう、とやけに冷静にそれを悟ったがそれでいい、と思った。声を聞いたのはそのときだ。

「…全く、」

 受けるはずの衝撃は、何時までもこない。重い瞼を開いて血に濡れた目で声をした方を見上げれば、そこには一本の刀がある。

「だから、僕が行くまで待て、と言ったのに、」

 一人で先走るから、こんな事になるんだよ、とその声は何でもないように続けて、目の前で男たちを次々と切り伏せた。

「弓親、」

 最後の男がとさり、と雨に濡れた地面に伏せたのを見て、濡れる弓親の背中にその名を呼んだ。やけに喉が渇いていた。

「…お前、戦わねえんじゃなかったのか」

 助けられ、出てきたその言葉に自分自身で呆れた。だが、ほかに言葉がでてこなかったのだから仕方ない。この男が剣を握らない理由を聞くことはなかったが、そこに何かしらの意志があることはあの時己と戦わなかった事から分かっていたのだ。この男はたとえ自分の身が危険に晒されようと、剣を握らないのだろう、とそう思っていた。弓親は、言葉に小さく笑った気配を漂わせた。地に沈む男たちを見下ろし、何かを懐かしむように声を落とした。それはこの場にはおよそ相応しくない慈愛のような声だった。

「昔、姉さんと暮していたんだ」

 戦う才が、あった、と弓親はそう告げた。

 

++

 

 それは物心がつく前から、当然のように弓親が理解していた己の能力だった。流魂街の貧乏な長屋に暮していたが、己にその才があることは何者にも勝る恵みの一つであると思っていた。それの使いようによってはいかようにも生きられる。ここはそんな街だと子供ながらに知っていたからだ。

「だけど、姉さんは、戦う才のある僕を見抜いていつも嘆いていた。そんなものなければいいのに、と泣くんだ。そんなものがあるから、貴方は戦いの中でしか生きていけないだろう、と言ってね」

 町でつまらぬ喧嘩を買って、返り討ちにした。逃げ去っていった男は腹いせに姉と慕った女を殺した。虫の息の女は、己のとばっちりで酷い目に合わされたと知っても、ただ己の身を案じるだけだった。

「剣の中に生きても、貴方に安寧を与えてくれる人が一人だけでもいてくれればいいのに、」

 姉の最後の言葉はそれだった。己にとってもし、安寧を与えてくれる存在があるならば、それは今ここにいる姉のほかになかった。剣を戒めたのはその時だった。姉の亡骸を土に埋め、誓いのそれを手向けに、町を出た。姉の来ていた着物を着て、姉がしていたように髪を結った。あの日から一度も、剣を握ったことはない。

 

 

++

 

 

「いいのか」

 問う。姉の墓前で誓ったそれはもう決して破られぬはずの約束であったに違いない。その声に、弓親が答える。

「いい」

 地に伏し事切れた男たちを前にして、やけに鮮やかな仕草で血振りをして、弓親は振り返った。

「僕だって、どうしようもなく剣を取りたいと、思う事はあるんだ」

 弓親に支えられ、駆け抜けた林道を引き返した。所々に切りつけた男達が点在していた。刀を振り下ろした時にはその生死を知ることもなかった男たちも、その全てが事切れていた。途中、弓親が、屍となった男の衣服から何かを取り出し、小さく何事か呟いたが、その声は朦朧とした意識では聞き取ることはなかった。やがて、雨に晒された家屋が見えてくる。戸口の前で一人の男が青ざめた顔で落ち着きなくそわそわと言ったり来たりしていたが、弓親の姿を見つけ、弾かれるように駆け寄ってきた。

「あぁっ弓親さぁん!もうほんと勘弁してつかあさい。戻ってくるまで、絶対死なせるなっていうから俺、やぶだけと医者呼んで、それから」

 喚きたてる男はいつだったか弓親を女と間違えて言い寄り、こっぴどく追い払われた村の男だった。男は、こっぴどく追い払われたあとも、何度も弓親の元へ通いそのたび追い払われそれでも懲りずにいた、変わった男だった。今日も弓親に会いに家屋に来たところを、わけも分からず”戻るまでに死なせたら、殺す、”と脅され死にかけの子供を託された憐れな男だった。男は、とにかく、と言葉を仕切り、乾いた声を出して家屋の戸口を開けた。

「…間に合ってよかった」

 その場所は。

 網膜に焼きついた数刻前と、なんら変わらぬ光景だった。う、と男が顔を背け、弓親は意識的に笑みをその顔から消し去った。ただ、己だけが、瞬きもせずその光景を眺めた。血は既に黒く変色し、肉片となった子供達は冷たい床に並べられている。部屋の奥、僅かに日の差し込む明かり取りの下で、医者を名乗る男に手当てを受けている子供がたった一人だけいた。弓親に支えられていた腕を解き、ほとんど這い蹲るように、子供のそばに駆け寄った。名を呼ぶ。虫鳴りのような小さな吐息だけが繰り返されている。やがて、ゆっくりと重たい瞼を開け、子供は碧玉の瞳を覗かせた。

 不意に芋の味が口の中で蘇った。それはかつて子供が己に与えた土臭い食べ物だった。さくりと奥歯で噛み潰したあの食感。あの味。それは体中を駆け巡る血の中にも、皮膚の中にも、割れた小指の爪先にも、流れる涙の中にも存在した。あの日与えられた匙ひとすくいの芋が、己の血肉となり骨となった。

 子供はゆっくりと瞬きを繰り返し、そこにいるのが誰かを知ると、擦り切れ、青ざめた唇を小さく振るわせた。笑った。気付いたら子供の頬を両の手で包み、いくな、と告げた。往くな。往くな。逝ってくれるな。

 

 

 

「い、あ゛ぅ」

 

―――  一角

 

 

 その時芽生えた感情を、形として与える言葉を知らない。

 

 

 

 あと一呼吸だけでもいい。

 この命を繋ぐものがあるのならば、この魂をくれてやる。

 

 声が聞きたいのだ。

 この声が。

 

 

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