糸し糸しという心

第一部【四】

 

 七度。

 振り上げた剣の数を足りない頭で、一つ、二つ、と数えて七度目の時、硬い土の上に膝をついた。これほどの強さを、力量との差をまざまざと見せ付けられたことはない。耳障りな風が鼓膜をさらう。いや、違う。これは肺が軋む音だ。体の中で風が吹き荒れるが如く、呼吸は忙しない。目の淵から押し寄せてくる暗闇に抗うように一度目を閉ざした。声を聞いたのはその時だ。

「お前、誰かを憎んでいるだろう」

 叫びたい衝動を、息を吸うことで押し殺した。

 

 あの日、葛木家の家紋だね、とそう言って弓親が懐から取り出したのは紋が刻まれた下げ紐だった。あの夜。子供達を襲った黒ずくめの男から弓親が抜き去ってきた代物だった。紫の下げ紐は、剣の手練の証。良く見れば、切り伏せた男達全てがその紋を刻んだ下げ紐を身につけていた。

 葛木家は数年前に流魂街の片隅に馬鹿でかい屋敷を立てたなり上がりの貴族だった。流魂街の治安をよくしようと、ここを拠点に水脈を掘り当てる事業を起こし肥やしばかりを増やす一族だった。ただ、近隣の村の住人の評判は良く、町をよくしてくださる方だ、と人から信じ仰がれていた一族だ。

「何でそんな連中が、子供なんかを襲う!」

 問うも答えを知るものなどいるはずがない。その夜、葛木家に襲撃しようともくろんで赴いた地で、護衛を名乗る男に返り討ちにされた。強い男だった。剣八、と、名乗ったその男は護衛らしからぬ粗野な姿で、一人の赤子を肩に乗せていた。

 四度目に挑んだ時、最早この男を倒すのはかなわぬ、と悟った。生半可な覚悟では埋められぬ力量の差がそこにはあった。それはもはや何をしても覆らぬ絶対的な差。それを知った時、初めて味合う屈辱と絶望に全てを諦めた。初めての敗北だった。屋敷に足を踏み入れることすら出来ぬ。護衛の前に切り伏せられ此処で果てるなど。全てが闇だ。

「殺せ、」

 搾り出した声に、呆れたように、告げる。

「つまらねえぜ、一角。もっと戦いを楽しめ、そして、俺を楽しませろよ」

 楽しめ!

 楽しめ、と!

「いいから、殺せっ俺は負けた。殺せ…!」

 殺せ、殺せ、殺せ、繰り返す、その声は最後には、懇願に似ていた。戦いの後ろでは、全てを傍観する弓親の姿がある。ただ静かにそれを見ている。

 

 殺せ。殺せ。殺せ。いや、違う。殺してくれ。どうかもう殺してくれ。そうしてこの苦しさから、俺を救ってくれ。誰でもいい。

 男は剣を振り下ろし、肩の赤子を抱えなおして、やけに静かな声で告げた。

「一角、お前誰かを憎んでいるだろう」

 

++

 

 子供は死んだ。名を呼んだ後、大きく唇を振るわせ、何かを告げようとしたけれどそれは声となって押し出されることはないまま一度苦しげに呻いて目を閉じた。

 一角。

 それが、子供の最後の声だった。

 もう二度と聞けない声に雁字搦めに縛られている。呪われているようだ、と思った。あの夜、子供が告げようとした告げられなかった言葉に己は囚われているのだ、と。悪い夢を見ているようだ。もうずっと悪い夢を見ている。弓親と、二人、子供達の墓を作った。

 

 

++

 

 

 弓親が寝静まった後、剣を取った。寝ていなかったと気付いたのは戸口を空け、冷たい夜の帳に飛び出そうとしたその時だ。外気の風は肌を冷たく撫でたが、もっと吹き荒れろ、とわけもなく思った。この耳を、目を閉ざせ、と。そうしたらきっとこのつまらぬ感傷も捨ててしまえる。

「行くの」

 起きていたのか。それは声にしないまま、背中に投げかけられた声に振り返る。灯りの灯らぬ部屋で、それでも弓親の布団から這い出す姿は見えた。じ、っとこちらを見る目。いつも本音を告げることなどしてこなかった男は、こんな時ほど、真実を告げる。それが今は憎らしい。

「…ああ、」

「行くな、一角」

 弓親は、ゆっくりと、立ち上がりやけに丁寧な仕草で解けた髪を結った。弓親が己に沿わぬ言葉を告げるのは思えばこれがはじめてだった。いつでも一線を規して、決してこちら側へ踏み込んでこないように、傍観者であり続けた男が。

 弓親は、夜着を調え、緩慢な仕草で伏せた瞼を上げた。

「行って、どうする」

 一人で。その先に進んで、一体、なんとする。と。

「決まってる、あいつらを殺した連中を殺す」

「その前に君は死ぬ」

 壁に立てかけられた剣を弓親は静かに振り返った。それはいつか子供が拾い集めたそれだった。闇の中でも浮きだつ白い指先でその柄をなで、弓親は一本の剣を手にとった。

「復讐など、美しくない。君はもっと美しくあるべきだ。今君の剣に映るのは醜い感情だよ、見ていられない」

 すらり、鞘から剣を引き抜く。暗闇で銀光が瞬く。

「引き返せ、一角。もし君がどうしようもなく感情を持て余すのなら、手を貸してやってもいい。僕は君をその苦しさから忘れさせることはできる。ここで、子供達と暮したこの場所でずっと、優しい夢を見させてあげるよ、君が死ぬまでね」

 僕にはそれができる、と甘いささやきを零す。一角は一度ゆっくりと弓親を見据えて、それから笑った。弓親も笑う。

「そうやって、男二人、依存しあって生きるのか、気色悪いな、俺はごめんだ」

「だろうね」

 肩をすくめて、告げる。

「おい、何で剣を取った。まさか俺に切りかかってでも止める、って言い出すんじゃねえだろうな」

 めんどくさい事この上ない。言葉に、一笑し、弓親はさらり、と声を押し出した。

「まさか。君が行くなら僕も行く、当然だろう?」

 弓親は振り返り、さ、行こうか、と戸口を出た。その背を視線で追い、瞑目し、殺してえのはどっちだよ、と返されない言葉を呟いた。

 屋敷に辿りつくと、いつものようにその男はいた。けれど、今、赤子は連れていない。子供はどうした、と問うと、木のウロ、で寝かせてある、とそう告げた。剣八は剣を取り、ああ、たまらねえな、と抜き身の剣をやけに赤い舌で舐めた。まだ灯りの残る屋敷の窓を見上げ恍惚とした声でそう告げる。その背を見上げ、一角は告げる。

「剣八さんよぉ、俺が言うのもなんだが、本当にいいのかい」

「何が」

「ここの家の連中はあんたの雇い主になるんだろ」

 剣八は一度振り返り、け、と吐き捨てるように一笑した。

「あんな連中、流魂街出身の俺をただのゴミにしか思っちゃいねえ。使えるだけ使ってようなしとなりゃ、金も払わず闇討ちで始末する手はずを整えているような連中だぜ。ちょうど、そろそろ身の危険を感じていたからな、ちょうどいいのさ、始末される前に始末する。もちろんこれまで働いた給金はもらっていくがな。簡単だろ」

 それに俺は館の護衛で終わるような男じゃねえ。

 その声に、一角は笑む。

 手を貸してやろうか、と切り出したのは剣八だった。あの日、俺を殺してくれ、と希った一角に、剣八が告げた言葉だった。ここの連中に共に暮していた子供を殺された。憎くてたまらない。殺してやりたい。だが、それも適わぬ。アンタがいるからだ。それならばもういっそ、ここで俺を殺してくれ。と、願った一角に、復讐に手を貸してやろうか、それもおもしれえしな、と剣八は笑ったのだった。

 主を裏切り、手を貸すなど正気ではない。だが、一角もまたその狂気を生きていたのだ。子供と出会うまで。

 一角は今は静けさを取り戻した館を見上げた。馬鹿でかい建物だ。家主がいるという大部屋までは剣八が案内をするという。正面の扉に門衛が二人ついている。何処から入る、と問うと、正面から突撃してきゃあいいじゃねえか、と返ってその単純明快さに違いねえ、と笑う。

「行くか、」

 一角は立ち上がり木の陰から剣を抜き放った。思えばこれが子供の形見となった。その時、低く唸るような獣の声を聞いた。だが、一角はもうその声が己の中から生じる本能の声なのだと知っていた。剣をひとなで、銀光を放つ剣に告げる。

「鬼灯丸」

 何の躊躇いもなく、さくりと歩き出した一角の背の数歩後ろを弓親が続く。その弓親の背中に、剣八は静かに問いかけた。

「おい、お前も戦うのか」

 剣八の記憶の中ではその男はいつも一角と自分との戦いを少し離れたところから見ていたただの傍観者だった。だが、今は腰に一本の太刀を差し、そしてその立ち振る舞いも、見事なものだ。復讐に手を貸すのはやぶさかではないが、この男も戦うとなれば、話が変わる。剣八は声に、俺の獲物が減るじゃねえか、とでもいいたげな不満も含ませていた。だが、弓親は剣八の言葉に笑っただけだった。

「まさか、僕が貴方達のように獣のように戦うわけがない。僕は今日もただの傍観者さ」

「なら、何で今日は剣を持ってる」

 弓親はゆっくりと剣八を見上げた。一角は振り返らずに突き進んでいく。

「決まっている」

 一角の背を見据えた。もう何度も、剣を握った一角の背中を弓親は見ている。美しい、とそう思う。剣を握った彼は、たまらなく、美しい、と。

 深淵を覗き見て、暗闇の恐ろしさを知ったように思うのならば幸いだ。仰ぎ見た男だけが、そこにはまだ照らす光がある事を知っている。その眩しさにいつでも目を晦まされているからだ。

 同情や哀れみではまだ生ぬるい。ただの傍観者であり続けた男は、今宵苦しみの一部となる道を自ら選らぶ。

 

「一角が死んだら、その時は僕がここの連中を殺す。それでこの復讐劇はおしまいさ」

 

 今宵三匹の獣が地に降り立つ。

 

 

++

 

 

 回廊の先、隔たった一枚の扉は厚い。無数に散らばる肉塊は全て切り伏せて歩いた人間の形をしている。三人目まで数え、四人目からはそのくだらなさに数を紡ぐのをやめた。

 獲物を獲た獣は捕食者でありながら殺す、殺される、ただその一点にだけ純粋だった。そこにあるのは快楽だけだ。獣は立ち止まり、お前はこの先に進むのだろう、とまだ誰も辿ったことのない道を見た。傍観者だけが、今ならばまだ引き返せると、辿った道を振り返った。目を晦まされた男は自分の足元を見据え、ここが何処なのかを只管孤独に想った。静けさばかりがある。声を聞くことすらわずらわしく、吸い込む酸素が肺を満たすまでの僅かな間で全てを終わらせた。鬼のようになりながら、この道の果てにあるものが、何なのかを知りたいと願った。その結果さらなる絶望を知っても後悔はしないだろう、と知っていた。

 

「何故、荒廃が繰り返される。飢え、強姦、暴力、それらを繰り返し味わった子供達が、次の加害者となるからだ。これでは世の中は荒れる一方だ。どこかで連鎖を断ち切らなければいけないのだよ」

 

 正しさを唱えた男は正しさにだけ忠実だったので、人を裁く事にだけ長けていた。

 

「何、どれだけ切り捨てようと、子供などはいて捨てるほど、生まれる。それらを育てればいいのだ。清く、正しくね」

 

 それがどれだけ冷酷で残忍かを正しさにだけ忠実な男は知らないからだ。一には一を報い。五には五を報う。そこには温情も、酌量もない。ゆえに男は愛を知らない。

 

「盗みを働く子供達は、後の平和な世を作るために必要な剣の試し切りに役立つのだ。存在意義もあろう」

 

 そこまで聞いて、一角は扉を押し開いた。燭台の炎が一度大きく揺らめく姿が見えた。正義にだけ忠実な男は、不法侵入を犯した不審者である一角の姿を見据え、驚愕に眼を開き、押しつぶしたような声で、誰だ!と、叫んだ。それも無理からぬ話だった。手に握るは、一振りの剣。返り血を浴びた一角の姿はまさに鬼と呼んでも差し支えはない、おぞましい姿だった。正義に忠実な男は、助けを呼んだが部屋にいた臆病な部下は、一角が姿を現したと同時に逃げ出し、他には誰も、その声を聞くものはいなかった。屋敷の人間は全て斬り捨ててきたからだ。

 一角は一度大きく息を吐き、正しさにだけ忠実なる男を見た。肥え太ったその男は恐れおののき、後の平和な世を築くために作らせた剣を手に取った。けれど正しさにだけ忠実な男は言葉だけで人を裁き続けたので、剣の握り方を知らず、平和な世を作るために必要な剣を取り落とした。一角はそれを拾い、正しさにだけ忠実な男を見た。獣は笑い、傍観者はこの時も一線を越えることはなく、ただの傍観者であり続けた。一角は、平和を作るという剣を握り、正しさばかりを唱える男の言葉を最後まで聞いた後で、この剣に切り伏せられ築かれた屍の上にある平和の姿を思った。

 

「この剣の切れ味を知りてえか」

 

 この日、男は、男が願った平和の礎となった。

 

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