最後の約束

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 深い洞窟の暗い静けさの中に、降り始めた雨の音が小さな反響を呼んで、その場所に篭っていくのを日番谷は聞いた。ツンと鼻をさすカビ臭い匂いがする。吹き込んだ枯れ葉は折り重なり所々腐敗していたけれど踏みしめる度に渇いた音を立てる。懐から取り出した蝋台の明かりは何処からか流れていく空気の道筋に揺らめいている。照らす道の向こうの、異様なまでの存在感で立ち並ぶ墓石は大中様々で、日番谷はぐるりとあたりを見渡してひとつ息を吐く。もう何年も、誰も足を踏み入れていないのかもしれない。この場所に漂う何処か殺伐とした空気は、それと探らなくても寂しく渇いていて、今すぐにでも立ち去りたくなるような、それなのに踏みとどまらなくてはいけないような、そんな気持ちにさせる。

 後ろ暗さは今は何も感じなかった。感じなくなったのだといった方が正しいのだろう。一歩進むたびに雨音は鼓膜から遠のいて変わりに深まっていく静けさに、日番谷の心もひとつまたひとつと余計なものを削ぎ落として澄んでいくようだった。ただ目の前に立つ墓石をじっと眺める。それ以外、世界には何もないみたいに。

「・・・久しぶりだな。」

 何十年か越しの挨拶には相応しくない気軽さで、日番谷はそれ以上続かない言葉を呟いた。

薄明かりに照らされてぼやけた視界が追ったのは墓石に彫られた男の名前。日番谷は目を伏せる。

 

此処に彼はいない。

此処に彼の魂はない。

此処に彼の骸はない。

 

 それなのに、この場所に立つことだけに、何年も、何十年も、月日がかかったのは、彼が残した言葉を理解するのに、自分の心は幼すぎたのだろう。迷いの中にいた。これだけの時間を要して辿りつく場所を今だ分からずにいる。時間だけが過ぎ去って、記憶も風化して、思い出が色褪せていっても。

彼の事を思い出さなかったと言ったら嘘になるのに。忘れていられたことの方がきっとずっと少ないのに。

それでも、心など知りもせず、日番谷の前に立つ風化した様を見せた墓石は、道しるべでもなく寄る辺でもなく、威厳も尊厳もなくただそこにあるだけだ。人のぬくもりも優しさもなく。悲しみも寂しさすらもなく。

いつかこの場所に立つ日が来るとしたら、それはどんな時だろうと思い続けて今日が来た。日番谷の中に未だにその答えはない。答えのないまま、けれど、日番谷は今確かにこの場所に立っている。

「・・・・また、来るよ。」

今度は間を空けずに。新しい花を持って。

紫の桔梗の花をそっと置いてきびすを返して歩き出した。言いたい言葉は全部飲み込んで。今は、まだ。

 

 

「俺は絶対に雄武の陣の時の浮竹隊長」

「何を言う。それだったら元26年梵の戦の京楽隊長は7の巨大虚を一閃だぞ。」

「檜佐木先輩なんて初陣で引率の席官を退けて始解だけで虚倒したって言うしな。」

「初陣!!」

「やっぱ、上に立つ人ってのはすげぇんだよ。」

「・・・・おい。」

 

「やべー。俺今度大蛾山で初陣なんだ。」

「マジで?!出世したじゃん!」

「・・おい。」

「そんなんじゃなくてな。死神3年目の隊員が行く筈だったらしいんだけど、そいつ緊張のあまり階段で転んで怪我したらしくてさー。変わりに俺が行く羽目になっちまったんだよ。」

「それでも、すげぇじゃん。班長誰よ?」

「10席の・・」

「おい。お前ら勉強熱心なのはいいが、休憩時間過ぎてるぞ。いいのか?」

控えめにかけた筈の声は、日番谷の気遣いも無意味なままに終わる事となった。それまで資料室の椅子に深く腰掛けて夢中で話をしていた隊員のひとりは驚きのあまり立ち上がり、言葉を詰まらせてむせ返り。身を乗り出すように話を聞いていた男は「日番谷隊長!」と言おうとして「ひ、」まで言いかけたもののそのまま椅子ごと転倒し、後頭部の打撃でのたうちまわった。やれやれ、と。ため息すら飲み込んで日番谷は転がった隊員に手を差し伸べる。机の上に広げられた紙の束に少しだけ視線を逸らし、後には何も見なかったように隊員の顔をそれぞれ見渡す。

「し、失礼しました。」

「いや、いい。それより早く行ったほうがいいだろう。」

「はい。ありがとうございます。失礼します。」

走り出した隊員の背中を見送って日番谷は彼らが残していった資料の束をかき集めた。そのまま部屋の奥へと進む。雨に濡れた髪から一滴ぽたりと落ちた水滴が、床に小さな染みを作ってやがて消えた。

「・・・・・確か今日は非番だったと聞いていましたが。」

部屋の奥その扉の向こう側から一人の青年が姿を現した。日番谷の姿を見て、静かに微笑む。その腰に携えた斬魄刀がキィンとまるで鈴の音がなるような小さな音を響かせる。日番谷は微笑んだ。それに応えるように。

「午前中だけな。午後から出陣だ。」

此処へきたのはそれまでの時間つぶしなんだというと青年は迷惑そうな顔を見せることもなく管理室に日番谷を招きいれた。この青年を資料室の管理人に推薦してからもう半年という月日が流れている。たった半年。けれど彼にとっては長い離脱の時。

「最近新人の死神がこぞって過去の戦の資料を読み漁っていきますよ。ここは現隊長達が出陣した全ての戦の資料が集められてますから彼らには面白いのでしょう。」

「そうか。」

「僕には彼らが色めきだって紙の上に書かれただけの戦果に一喜一憂する気持ちは分かりません。資料はただの資料で武勇伝ではありません。」

「・・・。」

「・・分かりませんが、憧れるんでしょうね。そういうものに。」

歴史に名を残していく人達の過去の栄光に。

理解はできなくてもそれは自分も同じなのかもしれない、と青年はふと思う。戦地を離れそれでも、この場所に留まる理由を自分は確かにもっている。誰にも何にも惑わされないような力強さでそれは確かに自分の中にある。彼らとおよそ等しい感情が。

「お前にもいるんだろ?憧れる人くらい。」

「そうですね・・・。」

(貴方には言わないけれど。今此処に。)

青年は日番谷の手から束ねられた紙の束を受け取った。見下ろした視線にもう何十年も前の戦の詳細が事細かに記載されている。色あせた紙の上に。色あせたインクで。

「隊長は、覚えていらっしゃらないかもしれませんが、」

再び顔を上げた青年の目に懐かしさがよぎる。その暖かさに日番谷は目を細める。雨音はしだいに強く窓ガラスをうち静かな資料室の中に単調な音を響かせ続けた。

「僕の初陣は、貴方の指揮の元でした」

もう、何十年も前のこと。日番谷と最前線を歩いたときの事を青年は

瞼の裏に思い出す。あの時と同じ気持ちで。

もし、辿る道がいくつもあるのだとして、そうしてそれを自ら選んでいけるのだとしたら、自分は確かにあの時、一つの道を選んだのだろう。この人だけに自分の剣を預けると。戦場を離れた今も尚それは変わらずに抱き続けている。

己の剣を貴方に預ける。

「覚えてるさ。初陣で前線に配属される死神は少ないからな。なんて可哀想なやつだろうって思ってた。」

「なんですか。それ。」

「そう思ってたらそいつが思っていた以上に腕のいいやつで正直驚いた。」

「・・・・・・。」

「こいつは、使えるなんて思ったっけな。うちの副官より優秀かもしれねぇって。」

「ふふ。」

「他隊にいたお前を引き抜いてもう10年になるな。」

「はい。」

「後悔してるだろう。」

あまりにもそっけなく口にした日番谷の言葉に青年はひとつ息を飲み込んだ。ちらりと覗いた伏せた日番谷の目がおそろしいほど真剣に揺らめく。その姿に魅入られて、瞬きすらもできずに、そっと息を吐く。

ああ、この人は。責めているのだ。

責を負っているのだ。

背負わなくてもいいものに思いを馳せているのだ。

「俺の元に来なければお前はまだ戦えたかもしれない。」

違う。

貴方の元にいたから、これまで力を尽くしてこれたのだろう。

貴方の元にいたから、刀を握り続けてこれたのだろう。

貴方の元にいたから、自分を失わずにこの場所に立っていられるのだろう。貴方の元にいたから、

「僕は後悔なんてしません。貴方の元にいられることを誇りに思っています。たとえ戦場に立つことが二度となくても。それは貴方のせいじゃない。」

本当です。

確かめるようにもう一度呟いた。

本当です。

本当です。

本当です。

戦場で潰された僕の手をとって泣いた貴方に。

 

 

後悔などしようものか。

 

「それにもしかしたら僕が戦場に立つ日がまた来るかもしれませんよ?」

「・・・・・。」

「右腕は使い物になりませんが、左はまだ少し動きます。リハビリがうまくいったらそこらの席官よりはいい働きができるでしょう。鍛えれば、右腕と同じくらいに動かすことも可能かもしれない。」

「頼もしいな。」

「何を呑気な。僕は一度決めたら上を目指しますから、そのときが来たら貴方と勝負です。」

「隊長席を狙うのか。」

「当然でしょう。やるからには最果てを目指さないと。」

「分かった。奪われないように心しておくさ。俺もそう安々とこの場所をくれてやるわけにはいかねぇから。」

最後には笑顔を見せた青年に日番谷は同じだけの暖かさで応える。あぁ、もしそんな日がくるとすれば。そう思い描いて再び笑顔がこぼれる。青年が雨雲が流れ続けていく空を写し取った窓ガラスに手を伸ばした。

「隊長も、ご自分の初陣は覚えていらっしゃるのでしょうか。」

「・・・・・そうだな。」

「ずっと、気になっていた事があるんです。ここに配属されてから。」

「なんだ。」

「隊長の初陣の資料は何処にもないのですね。」

日番谷は瞼を閉じる。それに気づいていないかのように、青年は冷たい窓縁に触れる。ガタンと軋む音を立て、開かれたそこから手を伸ばす。拉げた青年の手のひらに幾つも幾つも雫が滴り落ちた。冷たい感触だけを残して。

「・・・・やむでしょうか。」

青年からそれ以上の言及はなく、日番谷は青年の伸ばしたしなやかな腕のその先を視線だけで追った。雲は絶え間なく流れ、途切れない。さぁな、と一言呟いて静かに立ち上がった。その小さな背中が歩き出すのを見て、青年は一度だけ名を呼ぶ。振り返らないのを知りながら。

―日番谷隊長、

 

 

 

 

「お気をつけて。」

 

お気をつけて。怪我をされないように。

お気をつけて。無茶をなさいませんように。

 

お気をつけて。

貴方が悲しい思いをしないように。

 

 

「ああ、行ってくる。」

 ひとりの死神のたった一つの祈りは今もこれから先も誰も知ることもなく、窓越しに見上げた空は雨が増すばかり。

 

 

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