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最後の約束 |
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-3- |
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「渡さぬ方が、いいのかもしれぬな」
その声は、何の前触れもなく阿散井に届いた。六番隊執務室。緩やかな喧騒が回廊から届くこの場所は、けれど主の性質に似て、澄んだ泉の底を思わせる静けさが漂っている。声は、もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない。それは水琴窟に落ちる一粒の水音のように、柔らかく部屋の中に解けて流れた。 「朽木、隊長?」 書類に走らせていた視線を上げて、阿散井は白哉の名を呼んだ。答える声のない代わりに、執務机の前にいる隊首の瞳が一瞬だけ揺らいだ。それは暖かくも、何処か寂しさを漂わせるような色で、手の中に落ちた。 その手の中にあるものは。 もう、何度か目にした事のあるものだった。例えば仕事の合間。書類整理や、茶を入れるために湯を沸かす為に自分が席を立つ度、執務机の引き出しを開けて、何か懐かしい思い出を抱くように、この男が眺めていたものだ。 それが何であるか、とか。どんな意味を持つものだ、とか。阿散井が知ることはない。 ただ、”それ”は、いつでもこの男の執務机の引き出しの中に、大切にしまわれていた事だけは、知っている。 (あれは、手紙だ) 古ぼけて、くすんだその封書は。 (もう随分と昔に書かれた手紙だ) 決して人目に晒す事をしてこなかったそれは、今隊首の手の中で、ひっそりと存在していた。それを見下ろす隊首の目がゆっくりと伏せられる。それを見た時、阿散井は唐突に思った。誰に宛てられたものなのか。誰からのものなのか、何も知らない。けれど、あれは、 (大切に書かれた手紙に違いない) 「朽木、隊長」 思わず呼んだ声に、目の前の隊首は、伏せていた瞼を上げた。後悔はすぐに訪れた。何かを懐かしむような色を映した瞳は掻き消えて、いつもと変わらない揺らぐ事のない目が其処にはあった。一瞬だけ合わさった瞳はすぐに反らされて、すぐに手の中の手紙に落ちていった。 その時、気付いた。あれが、大切に書かれたものだと何の根拠もなく思った理由。 それは、この男が、大切そうに扱うからだ。この男がそれを見る時、何処か幸福なような暖かさで手紙を見たからだ。懐かしさに焦がれるような切なさで手紙を見たからだ。大切なものをみるような目で。遠い記憶に思いを馳せるような、そんな目で。 男は告げた。それはやはりひっそりと、執務室の中に解けて流れた。懺悔に似ていた。
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「これは、私の罪でもある」 「……」 「ただ無力さばかりを感じたあの日の」 「……」 「今尚忘れえぬ罪でもある」
この手紙を己に託した人は、かつて告げた。
――貴方が、必要だと思ったその時に、これを渡してほしい。
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「朽木隊長」
名を呼ばれ、白哉は顔を上げた。胸を掬ったためらいは今は何処にもなかった。かつて、これを託したその人がどんな、”時”を指したか、それは定かではなかったが、今を逃してその時は訪れないだろう、と、何処かで知っていた。
今尚、罪を背負っている。 それは、後悔という名を持っている。
一人は己。 一人は、友の名を持つ者たち。
そして、
白哉は、ゆっくりとした仕草で、手の中の手紙を、そっと阿散井の前に置いた。視線を落とした阿散井の目が、ゆっくりと驚きに見開かれるのを、遠い風景のように眺めた。 「朽木隊長、これって、」 かさり、と乾いた紙の感触は、指先から離れて、蘇る懐かしさも痛みもなく、あとはただそこにあるばかり。
「出陣の前に渡してくる方がいいだろう」
阿散井は顔を上げた。窓ガラスに、今はなんの温かみもない表情で雨に濡れる風景にそっと視線を落とす白哉が映った。その唇が質問に答えるために開かれることはない。そこにはいつものように、無機質さを思わせる姿で書類に目を通すいつもの隊首の姿があるだけだ。 阿散井は、白哉の白い指先で暖められた封筒の端を太い節くれだった指先でそっと拾い上げた。古ぼけた手紙は渇いていて日に焼けてくすんだ縁は汚くくたびれて、所々擦り切れて、指先にがさがさとした感触を残した。とても人に渡す手紙としてちゃんとしたものだといえない。それなのにやはり、それは大切に書かれたのだろうと思わずにいられないのだった。ただ真っ直ぐに書き添えられた宛名はインクがかすんで所々滲んでいたけれど、どこか優しさがあった。丁寧に書いたのだろうとそんな風に思わせた。封筒の端に控えめに添えられた名は、聞きなれない人だったけれど。
もう一度だけ手紙に視線を落とし阿散井は息を吐く。宛名に確かに綴られている名を小さく呟いて、立ち上がった。
「十番隊に行ってきます」
阿散井の視界の端で、無骨な自分の手で握られた手紙が映った。
六番隊 日番谷冬獅郎殿
見間違えようもなく、確かにその名が綴られていた。
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