最後の約束

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 伏せた目に、不意に滴る熱を感じて、日番谷は瞼を開けた。

 

 

 

 急速に取り戻していく視野。

 

 

 眩い光がやがて、形作っていく風景。

 深い緑の木々と空中で、七色の光を反射する氷の蒼。

 闇の深さにさえ溶け込む身に纏う黒。

 鮮やかなまでに目に焼きつく、赤。

 

 

 

 目に映る全てのものが一気に、押し寄せてくる。

「・・・・・・ッ・・・。」

 呻いた声が、体の内側から響く。

 すると、風の音が聞こえた。サァ、と吹き抜けていく風がざわざわと木々を揺らす。

 何処かで鳥がばさりと羽ばたき、鈴の音のような高い声で囀る。

 

 全ての音が、耳を覆っていく。

 

 

 

 やがて、匂いを思い出した。

 

 

 生い茂る草の乾いた匂い。

 湿った土の匂い。

 空気に混ざるかすかな血の匂い。

「・・・ぁっ、」

 体に痛みが走り、身を捩る。重さを増していく体の感覚。重い鉛に押し付けられているように全身が痺れて動かない。ただ、瞼だけが。重く伏せられていた瞼だけが、今目の前にあるものをしっかりと見据えようとするかのように、意思に従って見開く。

 その双眼から滴る涙が景色を曇らせていることは知らず、日番谷はしっかりと力を宿した視線をただ目の前に向けていた。

 

 

 

(現実だ―)

 

 

 

 五感を通して押し寄せてくる感覚の波に飲み込まれそうになって日番谷はよろめいた。随分と深い夢の中に捕われていたような気がする。いつの時間のどの場所にいるのかわからなくなるくらいに深い夢の中を、もうずっと長い間、駆け抜けてきたような。

 

 

『・・・何故?』

 

 明らかに光が戻っていく日番谷の目の力に、虚は息を飲んだ。能力を発揮した獅子の瞳が蒼から琥珀へ、移り変わっていく。目の前で、失われていく蒼に日番谷は瞑目した。 虚の驚くように息を飲む音が聞こえ、続いて明瞭に問われた声が重なる。踏み込めば、後一歩。

 顔を伏せるだけで額にその瞼が重なるその距離で、虚と日番谷は時が止まってしまったかのように対峙している。

 

 二つの体の間からは水音が規則的な音で滴り、それは地に根を生やす巨大な氷壁の根元へ流れていく。パキリと一枚氷雪の花びらが空中で一枚失われた。

 

『何故、最初の一撃で・・・・、ここを狙わなかった。』

 

 繰り返された声。

 一瞬虚ろになった虚の目が、眼光を失って最後の蒼碧色が、琥珀色に移り変わっていく。日番谷に見せ付けるように、虚が伏せた額には、覆いつくされる醜い仮面があった。

 それは寂寞の表情で半顔を纏い、傷ひとつない様で圧倒的な存在感を放つ。

 

 命の要。

 

 硬質な氷に覆われた日番谷の斬魄刀の一撃は、額を覆う仮面を見向きもせず、ふくよかに膨らむ獅子の腹を貫いた。

 命を奪う代わりに、深々と虚の下腹を貫いた斬魄刀を見下ろし、日番谷は瞬く。

 虚の鋭い爪は、同じように、日番谷の腹を貫いている。その痛みをもろともせず、日番谷は、息を吐くように笑った。

 どれだけの打撃を与えようと、仮面が砕かれなければ虚は死なない。体は再生を繰り返し、潰えることはない。

 それを知っていて、何故仮面を砕かぬ、と虚は呻くように繰り返す。

 日番谷はその声を聞くこともなく、自らも貫かれた体を一歩も後退させることなく、踏み込んだ。斬魄刀が、切り込んだ腹に、容赦なく、右手を沈み込ませ、氷の刃を貫いた。

 貫通した傷の回りから氷の膜は広がっていく。

 

 けれど、虚が、痛みに一声吠える声が空気を震わせても、その体は消えていかない。

「・・・シ、・・・ャル・・ベーシャ・・・。」

 低く唸るように絞られた声が名を呼ぶ。久しい。その音が耳を撫でる懐かしさに虚は驚愕した。長い時の中でいつしか仲間はいなくなり、名を呼ぶものは当に果て、自分自身ですら忘れかけていた名。

 

 

 

 

 

 そうだ。

 我は、シャルベーシャ。

 

 

 

 

 シャルベーシャの硬い爪先は、同じように日番谷の腹をえぐった。呻く声と共に、目の前の子供は血を吐き出す。苦しげに体をよじらせた子供は今にも全身をその腕に預けて息絶えていきそうに見えた。けれど、子供は、しっかりと両足で踏みとどまり、挑むような目でシャルベーシャを見た。思いの極まった先に言葉などない。そういうかのように日番谷はシャルベーシャを見上げて不敵に微笑んだ。そこに意思と覚悟と何かしらの確信を抱いた強い目で、挑むように放たれる強い眼光。

『!?』

そして、それは一瞬。

けれどそれが生死を分ける全て。

 

 バキリ、と強く弾かれる音が不意に耳を覆った。

 腹の奥に埋められた日番谷の腕が急速に熱を帯びる。一瞬で獅子の体の回りは、ばきばきと氷塊が築き上げられ、どこにそんな力が残っていたのかと、問いたくなるような強さが指先に宿る。

『(熱い―――!)』

 グっと力を込められた指先がまさに体の中でうごめいた。その手の感覚が、ぞっと体温を奪っていった。失われていく、熱塊。シャルベーシャは息を飲む。

『・・・お前!』

 見下ろした子供の目がその瞬間確信に満ちた目で見上げてきた。腕の先から放たれているかのような光が、傷口から零れ出る。熱が急速に失われようとしている。

「・・・返して、もらうぞ。」

 やけに明瞭とした声で、

「ここに囚われたもの、全部」

 日番谷はそう告げた。

 

 

 その言葉に、今まさに子供の指先で、体の中から失われようとしている熱の存在が何かを、シャルベーシャは今更ながらに気付いた。

 

 

 光、それを宿すものは、

 熱、それを宿すものは、

 

 

『初めからこれだけが狙いだったのだな・・・。小僧!!!』

 

 

 呻いた体は氷壁が邪魔して動かない。

 

 

 

 その瞬間、傷口から光が、散った。

 

 

何かに弾かれるように、パッと音をたて、

それは空へ向かって弾けていく。

 

 

一筋の光が次から次へ。

 

 シャルベーシャは突き刺していた爪先で日番谷の腹部をえぐった。こんなことは許せなかった。命賭けた戦いなのではなく、子供が求めたものは初めからこの身の中に宿る熱だけなのだと気付いたら、憎らしくすらあった。日番谷の口から短い悲鳴が響く。

 

 けれども日番谷は決してシャルベーシャの腹の中から手を離さなかった。

 虚の腹から光が飛び出し、弾け飛ぶのを見ていた。それが潰える瞬間さえ、見逃さなかった。まるで散華のようだった。

 

 

 やがて。

 最後の光が散っていく。

 

 

 その瞬間を確かに見届けた日番谷は、腹に深く沈めた腕を一気に引き抜いて、シャルベーシャの腕を掴んだ。

 自分の体に刺し貫かれている爪を握り、ぎりぎりと押し返していく。

「・・・っぁあ!」

 やがて、爪が体から完全に抜けると、日番谷は地を蹴った。空中に高く飛び、飛び散る赤い血が視界を流れても気にもとめず、地に氷で縫い付けられたシャルベーシャに、斬魄刀を振りかざす。

 

 刹那、虚の双眸と目があった。それは既に蒼色を失い、もう決してその色に染まることはなかった。

 

 永かった。

 ここまで辿りつくのに、随分と時がかかった。

 これだけを願って、終わりのない道を走り続けた。

 

 日番谷は告げる。

 

 

 

 

「もう、夢は見ない」

 

 

 もう、夢を見ない。

 幸福で、懐かしい夢を見ない。

 

 失った過去の幻影に、振り返りはしない。

 

「…お前が、見せた幻影は、」

 この優しさに。

「幸せな、幸せな、」

 このぬくもりに。

「――夢だったよ」

 

 

 

 

 

 立ち止まりはしない。

 だから、

 

 

 

 

 

「もう、終わりにしよう」

 

 

 

 

 

 彼らの残した全てを抱き、

 日番谷は、この先の道にゆく。

 

 

 斬魄刀を、振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの日交わした約束の、

 

――――主、これが答か。

(そうだ、)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが痛みでも。