霜天

 

 少年は走ってきたようで、ひどく荒い呼吸をし、着ていた着物を乱し、その右手に先端の裂けた枝を持ち、そしてその姿は一人であった。合わさった視線に、浮竹の耳に桃という少女の言葉が蘇る。託された名は二つ。少年の見目からおのずと呼ばれていた名は導き出されるがそれが定かかは分からない。では、もう一人は何処へ。浮竹が唇を開きかけたその時、視線がそれよりも早く、少年の唇が恐怖からか一度ゆっくりと戦慄くように震え、そして開くのをとらえた。少年が紡ぐ言葉は、助けか怯えか、はたまた謝罪か。何であってもこの手を広げ、助けてやらねばならない。

 

 少年の勢いよく駆けてきた足は止まらず、また浮竹たちの山腹を駆け上がる歩法の早さも弱まらなかった。今一本に繋がった少年と死神の僅かばかりにあった道が一気に縮まろうとしたその時、浮竹の予想を打ち破る少年の声が、その耳に届く。それは当たり前に庇護を与えられるはずの子供が発するには程遠く、そして、当たり前に庇護を与えようとしていた浮竹にとって脳天を打たれたような衝撃であった。

 

「――――来るなっ!!!!」

 

 明らかに己を助けに来た大人の姿に強い怒声。そして大人二人が死神であることを瞬時に認めたその翡翠の眦を細め、尚止らぬ速度で少年は駆け、そして一度目の声に、何故従わぬ、といわんばかりに怒気をはらんだ声をもう一度上げた。

 

「来るな――っ!!!」

「!な、――おい、こらがきんちょ、俺らはお前を助けに――ッ!」

 

 小椿の言葉に為りに似合わぬ舌打ちをこぼし、言っても聞かぬと悟ったか、少年は怒りと焦燥とない交ぜになったような視線を刹那送った。そして、歩を緩めた二人の死神に駆けてきたままの勢いで体当たりするかのごとく、死神――小椿の前で止まった。

「うおばっ!?」

 その瞬間、目の前の光景に浮竹は我が耳どころか、その目を疑った。

 

 キン。まるで何かの小芝居のように綺麗な鯉口を切る音が耳を打つ。すらり。続いて鞘走る刀身の響き。一点の淀みもなく刀を引かなければ鞘の内側に刃をこすり付けてこの音は出ぬ。力ではない。技がいる。

 そして、目前で艶引きされた刃が白日の下、その陽光をきらりと弾いた。

 

「な、な、な―――ッ!!!」

 

 小椿は助けに来たはずの少年の予想もせぬ第一声とその所業に二の句が継げぬ。あまりのことに一瞬何を見たのかも分からなかった。それは左隣で全てを、そう、瞬くことなく少年の一連の動きの全てをその目で捉えた浮竹も同じであった。

 

 今、裂かれた枝を振り捨てた少年の右手に一本の剣がある。瞬く銀光を放つそれは紛れもなく、死神、小椿の、腰に差してあった斬魄刀。それであった。

 

「何しやがるッ!!この――、」

(なんて事だ。人の腰の剣を抜くなんて、それも斬魄刀を、)

 

 小椿の腰に差してあった太刀の柄に迷わず手をかけ振り上げるような動作一つでその刀を抜いた。よどみない抜刀。並みの反射神経では人の刀は奪えぬ。何より度胸。とても子供が持つものではない。奪われた刀を目前にして、ようやっと何をされたかを悟り、憤る小椿の前で少年はけれど一人静寂の中にいるかのように、すらりと剣を構え、浮竹と小椿に背を向け、今まさに走ってきた方角に振り返った。そして浮竹はその少年の横顔に己の思い上がりを、悟った。

 

 何を、当たり前に庇護などと、

 

 剣を構え少年が見据えた一点。その横顔から覗く翡翠の双眸が見せたものは、庇護を求め与えられることを望む子供のそれではない。  

 命をとして戦う我々死神と同じ、

 

 ―――まぎれもない、「戦意」。

 

 

 その背を罵倒し刀を奪い返そうとした小椿の声は、最早少年には聞こえない。浮竹はよどみなく刀を構えた立つ少年の姿に目を奪われる。少年は一人静寂の中、剣を構えた。それは一瞬にも満たない僅かなとき。射止められる視線と、少年が向ける戦意と、小椿の声が錯綜したその瞬間、少年が駆け抜けてきた茂みがまるで地響きにゆれるように小刻みに葉音を繰り返し、そして、

 

ド、

 

突如その茂みが盛り上がった。

「なああああああああ?!」

 最早、刀を奪い返すどころではない。少年と小椿の目前でその地盤が僅かにめくりあがったと思った瞬間、つぶてと地中の木の根を舞い上がらせ目を疑うほど巨躯の虚がたった一丈先に現れた。が、その時、慌てふためいたのは刀を持たぬ小椿ただ一人。少年は見据える。凍てつく翡翠の双眸で。最早心を失い醜い姿を晒した魂の成れの果て、虚。

 少年が向ける戦意。それは明らかに対峙した巨躯の虚であった。自分の身の丈の数倍にも及ぶそれを前にして構える剣先に乱れはない。この状況でなければさぞ見惚れたであろうその姿も、今は喜び観賞している場合ではなかった。小指一本分揺れた少年の持つ剣の切っ先に、既に切りかかる算段を整えている少年を知り、子供に戦わせては立つ瀬がない、とばかりに浮竹は斬魄刀に手をかける。そして少年が地を蹴るよりも早く、抜刀、一閃。白い光が二つ。少年の頬の横を駆け抜けた。

 

 それは最早、声ではない、。

 醜い虚の悲鳴が雷鳴のごとく轟く。

 

 光の斬撃が虚を穿つその姿が視界に飛び込み、少年は目を見開いて、光が走った源を振り返った。断末魔にはまだ程遠い。醜い虚の悲鳴の中。屑折れた膝を立ち上がらせた虚を尻目に、そこで初めて浮竹の存在に気付いたように、少年はその姿を視界に宿す。長身の男の手に、鎖で繋がれた双剣がすらりと眼前に伸びた。

 

「小椿、一端引こう。」

「あ、は、はい!!おら、がきんちょ、おめーも来いっ」

 少年はそのとき初めて気を散らし、剣を乱した。

「なッ…!離せ!!俺は、戦、――」

 

 視界の端で、体勢を整えた虚が再び迫る。少年の反論の声はむなしく、太い腕で安々と腰を持ち上げられた少年は、そのまま死神の背に負われた。そのとき、ぐらりと視界が歪む感覚に思わずその目を閉じた。少年が景色を飛び越えるその不思議な能力を、瞬歩という名と知るにはまだ少し時がかかる。初めて身をもって知ったその瞬歩に、少年は胃の中のものを全部吐き出したいほどに酔い、そして我慢のかいなくその身を背負った死神、小椿の背中に、吐瀉物を吐き散らかしたのであった。

 

――

 

 なんで、顔横向けなかったんだよ、お前。

 内心毒づくも温和な隊首の前では言は紡げぬ。拳骨一つでは背中に嘔吐された怒りも刀を奪われた怒りも収まらないがそれでも、「それくらいで勘弁してあげよう、」の隊首の一言に、怒りで震える二つめの拳骨をようやっと下ろすと、小椿は頭上に打ち下ろされた拳の痛みに喘ぐ少年の姿に怒りを納めた。

 

 浮竹と小椿、そして、少年の三人は今山の袂近くの沢の側に降り立っていた。そこで、山の中で虚に襲われ、少年が囮となって虚を引き付け、逃げていた事を知り、そして友人はまだ山の中腹で身を潜めていることを知った。虚がこちらを追ってくる様子はなく、その間に小椿に少年を街まで送るように指示した浮竹はとにもかくにも虚の討伐に向かうと告げた。当たり前のように意に従わぬ姿を見せたのは少年だ。己の意志に反して撤退をした非を責め、剣があれば一人でも戦えた、と告げた。それを許すことは絶対にできなかったが。

戦えた、

 少年のその言葉は、ひどく浮竹の胸をついた。なるほど、この少年ならば。そう、考え、それを打ち消す。それは浅慮に過ぎる。何を考えている。だが。しかし。どうして。あの立ち振る舞いが瞼から離れぬ。この少年が他人の剣を奪ったあの一瞬。よどみなく、構えた所作。そして、信じられないことに、逃げ惑った数十分たった一本の木の枝で応戦し、あろう事か、そう、あろう事か、少年は、初めて、生まれて初めて、その時、真剣を、その手にしたと言ったのだ。

 

 

 

 

 

才。

 

 

 

それ以外に言葉はない。

この少年にあるのは、

 

 

戦う、才だ。

 

 

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