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最後の約束 |
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ゆったりと腰掛けたソファからぐるりと見渡した五番隊の執務室は、もう随分と懐かしい場所のような気がして、市丸は小さく微笑む。自分の存在一つが消えただけのちっぽけな部屋の中は、もう何処にも昔の面影を感じない。ここに自分がいた痕跡。匂い。そういった目に見えない、何かを。
市丸はどうでもいいようにひとつ欠伸を噛み殺して、深くソファに腰を落とす。先ほどから背中ばかりを向けた元上官の藍染は、二人だけのこの部屋の中で、仮面を被ることをやめたようだった。やがて振り返ったその顔が冷ややかに微笑むのを市丸はゆっくりと確かめる。それが楽しげに感じるのはきっと勘違いではないだろう。この男は楽しんでいるのだ。自分の手のひらの上で転がっていく駒の行く末に、惹かれていくものがあるのだろう。その存在が彼にとってたとえ塵のような小ささでも。
「うまいこと、やりましたなぁ。」 「何の事だ。」 「十番隊。」 「・・・・・・・・。」 「あの任務につくように仕向けましたやろ?」
市丸は視線だけ窓の向こうにさまよわせて、角笛の鳴り響く外の世界を思った。集い始めた死神たちに分け入って、乱菊が歩いている。その前をしっかりとした足取りで羽織を着た子供は刀を握る。迷いのない顔で、歩いていくだろう。幼馴染の前をゆっくりと。ゆっくりと。その姿を想像する。
部下に付いた数百年。幾千の夜と朝を向かえ、市丸は藍染の事を少しだけ理解している。だから、この思いは不確かな思いではあるけれど、確かな思い。藍染はあの子供を仲間に引き入れようとしているのだ。暗い水底でその手を伸ばして藍染は待っている。あれが、堕ちてくるのを。
「動かしたのは、僕ではなく、彼の中に巣食う憎しみだ。」
何かに思いを巡らす様に藍染は呟いて目の前で共に戦った数百年前と変わらない姿の市丸にそっと視線を向ける。
「・・・生き残ると予想した海燕があっけなく逝ってしまったからね。」 「よく言いますわ。わかってましたやろ。死ぬやろう、って。」 「海燕には、もう少し期待した。我々の仲間にするなら、あれくらいは倒してもらわないと。」
藍染は穏やかに微笑み小雨になり始めた雨が濡らす窓ガラスにそっと振り返る。見下ろした眼下の風景。傘も差さずに集い始めた死神たちが、主君を待ちわびている姿が見える。一つの儀式のように斬魄刀を握りしめている彼らの間で翻る旗が、ゆらめいている。十番隊の、隊旗。
「彼の力を試す機会をずっと伺っていたんだ。あの幼さであれだけの力。僕らの仲間に相応しいと思わないか。」 「・・・それで、今頃あの失敗作の虚、ですか。」 「ちょうど、あの人が死んだのがこの時期だったことを思い出したんだ。思えば邪魔な存在だったあの男を殺すために仕向けた戦に日番谷君が関っていたのは好都合だった。おかげで面白いシナリオが描けた。」 「・・・・・。」 「尊敬していた人の仇。憎しみが彼を動かすんだ。力を試すのに、これ以上の舞台はないだろう?」
妖艶に微笑んでみせた藍染に市丸は笑う。では、その憎しみを作り出したのは誰だ、とよぎった言葉は飲み込んだ。その空々しさを笑えない。藍染に加担してもう幾人の命をこの手で絶った。その事を思い出した。 「・・・あの子供、」 思い出す。あの幼い子供の背に背負われた、十。それを背負ってみせたその姿。
「生きて戻りますやろか。」
沈黙が訪れて藍染は何も答えないまま瞼を閉じる。優しい者が抱く憎しみほど、御しやすいものはない。彼が生き残ったならばきっと仲間になるだろう。憎しみは憎しみによっては晴らせない。一度動いてしまえば同じ歯車を永遠とまわり続ける。そして、彼は今まさにその歯車を動き始めた。用意した復讐劇の真ん中で、彼は刀を振り下ろすだろう。後は待っていればいい。この手を広げて。
この場所に、堕ちてくるのを。
「日番谷君は、」 藍染は断片的ないくつかの風景を思い出す。流れさっていく時間。瞼の裏にすっとよぎって消えていったそれらの映像はもう随分と昔のものだ。まだ幼い顔つきの市丸の姿。市丸に伸ばされた手が、誰のものなのか藍染はよく、知っている。振り返った幼い姿の市丸が、ためらわずにその手を握り返すことも。
「お前に似ているよ。」
藍染の開いた瞳の奥に映しこんだ窓越しに見下ろした光景の中で、一際際立つ霊力を持った小さな背中がその背に十の文字を背負って現れるのが見えた。ざわめきは大きくなり、その声は市丸の耳にも届いた。
(そうやろうか。あの子は、僕に似てるんやろうか。)
疑問は胸を掬ったが、市丸はあの子供と自分とで決定的に違う何か、それが一体何なのかを最後まで分からないまま、立ち上がった。歩き出したその背を冷やりと冷たい声が静かに呼び止める。市丸、とそう呼んだ声に何が含まれているのか、市丸はもう知っている。
「時は近づいている。・・・いいね?」
市丸は何も答えないまま振り返って再び歩き始めた。やがて鳴り響いた最後の角笛の音は、その音が鳴る意味を静かに伝えた後で、小さくなって消えていく。残響が静かに市丸の耳の奥で鳴り続けた。
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