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最後の約束 |
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-9- |
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雨足が早まっていく風景を横目に、不思議に心は凪いでいた。信頼を寄せる幾人かの席官には見送りを禁じている。いつもの朝のようにこの場所から発ちたかった。何でもない日常のように旅立ちたかった。その思いはこの戦いで抱く覚悟に反しているだろうか。
日番谷は人気のない回廊を進み、そしてその道が何処へ続いているのか、しっかりと見据えて歩いている。思えばこの場所をたった一人、こうして歩くのも、白哉の元を去ってから、始めてだったかもしれない。通り過ぎた沢山の六番隊員たちは、何でもないいつもの日常のように、挨拶を交わして去っていき、この隊の中で働ける充足感を隊員たちから感じることができた。それはもう数えられないほど昔、確かにこの心にあったものと同じかもしれない。会っておかなければいけないような気がした。この狭い死神の世界の中で唯一。あの人にだけ。本当の言葉を言わなければいけない気がした。それも勝手な思いだろうか。 コンコン。
薄暗い回廊の果て。 その先にある扉の前はしん、として深い静けさが胸をすくう。僅かに走った緊張は、すぐに聞き覚えのある声が、解いた。懐かしい声音がゆっくりと自分の名を呼ぶ。
「・・・・日番谷か。」
会えば、交わす筈だった言葉も、思いもその瞬間に立ち消えて日番谷はその場所に立ちすくんだ。扉も開けられないまま。
無茶な事を、 と叱り飛ばしてほしかったわけではない。お前が正しいと、肯定してほしかったわけではない。この男はそのどちらもしない。それはこの男の元で過ごしてきた日々が知っている。 それなのにこの場所に来なければいけないような気がしたのは、この男の元にいながら、違う誰かにこの刀を捧げた後ろめたさからだろうか。心の中で違う誰かを主君と呼んだからだろうか。 扉の奥であの冷たい張り詰めた霊圧が不意に揺らめくのを感じた。その気配はゆっくりとした足取りで扉の前に近づいてくる。日番谷は顔を上げた。重い重い扉の前でその霊圧はゆっくりとその歩を止めたのを感じて息を飲む。たった一枚の扉が隔たったその向こう。
「お前を止める術を、私は持たぬ。」
その凛とした声は日番谷の耳にしっかりと響いた。 この男の元にいながら、心はずっと違うところにあり続けた日々。いくつもの同じ風景を傍らに立ちながら、思いを馳せる存在はいつも違う人であった。あの日から。今日まで。 これから先も。
これは懺悔だろうか。
「俺はあんたにだけは引き止められるだろうと思っていた。朽木隊長。俺は、あんたに・・」 「・・・お前の心は、私ではない主あるものの心。あの戦いの果てに、お前の中に根付いた存在を私は、知っている。そんなお前に、私の言葉がどれだけの意味を持つ?」 「昔から、気づいてたって言うのか。あんたは。それなのに、何でだよ。何であんたの元に俺を置き続けたんだ。」 「私のお前にある責はたった一つ。」 「・・・」
「あの戦に、お前を向かわせた、その事だけだ。」
日番谷は瞼を閉じた。 あの戦いの中で共に過ごした仲間達の姿がおぼろげな姿で瞼の裏をちらついた。たった数日、共に過ごしたあの忘れられない日々が、この心に永遠を作った。
「私の元にいながら、お前の心がもうずっとあの男の元にあったというなら・・・」
日番谷は震える手を握り締めて扉に背を向けた。歩き出したその背中に白哉の最後の言葉は届いたか、届いていまいか。その表情は凛として、もう何者にも迷わない強さがその瞳の奥で揺らめいていた。
「行くがいい。誰が望まずとも。」
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カタン、と椅子を引く音が重い沈黙を容易く破った。同じ執務室にいて筆を握ったまま視線を向けることも、書類に筆を走らせることもできずにいた阿散井は、たった一枚の扉を隔てた白哉とその向こう側で交わした日番谷との会話に、息を殺している他何もできることがなかった。不自然なほどのもどかしい二人の距離感。その中で何か自分では到底及ばない時間の流れが確かに二人の中で存在している。それはきっと信頼と呼べるほど強くなく、淡く心にあり続けるもの。阿散井は何事もなく執務室の椅子に腰掛けて仕事を再開した白哉の姿を見つめた。その視線が自分に向けられることはない。
(本当は、行くなと言いたかったんじゃないのか、朽木隊長。)
見つめる先の沈黙はやぶられることはなく、阿散井は知る由もない二人の世界にそっと思いを馳せた。
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