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最後の約束 |
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暗が近づいてきている。それは夕暮れと夜とを繋ぐ黄昏時に似ていて何処か所在ない。まるで足元から忍び寄ってくるように視界の下の方から長雨に似た色がじわりじわりと広がりをみせてくる。立っている場所が、不意に脆く崩れ落ちそうな錯覚を起こした。薄い氷の上を、何処までも底を感じさせない底の上を、走っているような。それは夕暮れ時母親の帰りを待ちわびて畳みの上を這う子供の心もとなさに似ているような気がする。日番谷は走りながらひとつまばたきをする。同じ質量の暗が瞼の向こうに広がっている。雨にぬれそぼり青々と茂る田園風景を駆け抜けて、幾たびの災害で改良を重ねられただろう大きな橋をのぼりきった。長く長く続く鬱蒼とした竹林を越えて、やがて見えてくる山間。同じ風景だ。不意に日番谷の脳裏に色鮮やかないくつかの風景が浮かんでは消えていく。まるで水底から湧き上がる水泡のように、後から後から浮かび上がっては弾けてゆくそれらの風景は、目の前で、流れ、通り過ぎていく風景と驚くほどにぴたりと重なる。まるで故郷に足を踏み入れたような懐かしさが心をよぎる。心の中で消え去ると言うことを知らなかった、あの日と同じ風景。空の広さ、色濃く萌える草木。匂い。この道を、この道筋を、あの日と同じ道筋を、日番谷は今走っている。あの日と違う気持ちで。
(鶴峰山・・・。)
迷い迷いてさ迷い歩いた日々ではない。 焦がれ望んだ救済の日々ではない。 憤怒に燃えた日々ではない。
突き動かしたものはそのどれでもない何か。陽だまりでたゆたうものが、柔らかくそっと包み込むように、日番谷をここまで歩かせてきた。それは気が狂わせんばかりの後悔を、優しく癒す。そのことは切なくも、悲しくもあったが確かに幸福だったのだと思う。これまで誰にも語ることのなかったあの人との最後の約束だけが、どんな時でも生きる道を啓示したように、心の水底で望みに望んで、めぐりめぐった今日という奇跡を日番谷はただ感謝する。
(ありがてぇ、俺はまた戦える。)
心の中に置いてきたあの日の風景を、取り戻すように日番谷は駆け抜けた。
やがて日番谷に霊山が押し寄せるように視界を覆った。ふもとで数人の死覇装を着た男の姿が見え始める。一際大きな男が大きく手を振った。男の腹の底から出たような野太く響く声が一声、日番谷の名を呼ぶ。
「日番谷隊長!お疲れ様です!」 「・・・竹添。状況は?」 「問題ありません。結界も修復してあります。明朝いつでも出立できます。」 「六番隊の補給部隊が間もなく到着する。選抜で先に見張りについた者から順番で交代させる。」 「はい。」 「監視は?」 「ただいま89時間弱。これといった変化はみられません。時折山頂から獣の咆哮のようなものが聞こえます。」
その時、低く鳴る地鳴りのような音がゴォ、とゆるやかに不気味な広がりで鶴峰山を中心にゆっくりと鳴り響いたかと思うと、まるで天を裂けんばかりの咆哮が、日番谷達の耳を劈いた。張られた硬質な結界が衝撃を受けてまるで柔らかな絹が風に戯れてゆれるように、たわむ姿が見える。衝撃で起こった風が袴の翻す。新緑が、雲が、ざわりと揺らめく。
「これは・・・、」
竹添はまるで化け物でも見るようにその音の鳴り響いた中心にある霊山を見上げた。幾人かの隊士は声も飲み込んで震える膝を押さえて立ち尽くす。もう、一声。鳴り響いた同じ声音が耳を覆った時、竹添は急に建ち眩んだ。この世の何処にいっても聞いたことがないような、地響きのように、海鳴りのように、低く低く体の芯を揺さぶるように鳴り響く声音。恐れも悲しさもその響きからは感じさせない。ただあるのはエネルギーの固まりだけ。そのエネルギーの固まりは断末魔のようでもあって、産声のようでもあった。腹の奥、そのもっと奥から自然と湧き上がるような、息をするかのように当たり前に漏れ出づる、生命の叫び。
「挑発してやがる。」
竹添は、日番谷のその声の軽やかさに驚いて振り返った。深い眼差しがただ一点だけを見つめて揺れることがない。薄い唇の口角がゆっくりと上がって、日番谷の顔が確かに微笑んだ。
(あぁ、この人は笑うのか。これほどの力を前にして、恐れもなく、笑うのか。)
やがて最後の音が響き終わるとき、日番谷の十の羽織が翻った。
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