最後の約束

-15-

 

 

懐かしむ

それをいとおしむ

 

失っても 失っても

 

 

 

 

 

何度でも

 

 

 海の水底のような夜だ、と竹添は思った。見上げた天蓋を振り仰いで僅かな月明かりが雲間から差し込む光を眺める。気付いたら降り続いた雨は、霧が晴れるようにやんでいた。清められた空気が、鮮やかな夜を作りだす。紺と藍のコントラスト。深い深い水底のように静かな戦いの前夜。末声のように鳴いたあの二声が空気を震わせて響きあった後、まるでそこに音は全て吸い込まれてしまったのだというような静けさが訪れた。獣の咆哮のような音は、あれ以来一度も聞こえない。静寂だけが夜を満たしていた。あの声音に混乱を予想して、街の警護の人数を増やすように指示を出したのは日番谷だった。代わりに、即席で作られた日番谷の寝床に配属される見張りが、いなくなった。最初から必要ねぇんだよ、と言う日番谷に、この場所で見張りとして門戸を守ると竹添は言い張る。その言葉に、日番谷が折れたのはゆうに数十分のやりとりをした後だ。時間の無駄を悟った日番谷は日付が変わる前には必ず就寝することを条件にそれを飲んだ。見渡す風景にそびえる霊山だけが視界を妨げる。そこは、戦場の恐ろしさもない。戦いの予兆もない。ただ、美しいばかりの風景だった。不意に小さな声が聞こえたような気がして竹添は視線をさまよわせた。視線を動かした先に人の気配だけがあった。夜闇の中を小さな蝋燭の灯りが揺らめく。耳を欹てなければ、気付かないような小さな子供の泣き声が聞こえてくる。その声音は小さく、かすれ、途切れながらも、止まることを知らない。竹添は揺らめくともし火の先に目を凝らした。夜の色に溶け込みながらもおぼろげながら姿が現れてくる慣れ親しんだ霊圧が、空気が肌にふれるようにふわりと訪れる。

 

「竹添先輩。」

 

 やがて控えめに駆けられた声に竹添は駆け寄った。後輩の隊士の姿の横で、細い手を確かに繋いで心もとなく泣く小さな少女の姿がともし火に照らされた。

「どうした。」

 見下ろした視線の先で年端もいかない少女は、ただ肩を震わせている。

「それが、この地区の子供に間違いはないんですが、どうも避難所に行きそびれて、暮らしてた人とはぐれたらしいんです。森の中で一人で泣いてる所を保護しました。一応一番近くの避難所には行ってみましたけどね、連れもいないというし、収容人数がいっぱいなんだそうです。この子もあそこは嫌だとまた泣くもんですから、どうしたもんかと・・・。」

 

 

「どうかしたか?」

 

 

 竹添の背中の向こうから不意に硬質な声音がそう言葉を紡いだ。立てつけの悪い戸がカタカタ、と音をたてて開く。隊長衣を脱いだ日番谷の顔がゆっくりと覗き込む。その視線が少女の上をとまどいがちにさまよった。

「迷子か。」

ひやりとした夜の空気の中を躍り出るようにふわりと日番谷の体が揺らめいたかと思うとすぐに日番谷の姿は少女の目の前で、膝を折った。

 

「日番谷隊長。」

 

 竹添のちょうど左側に見下ろす形となった日番谷が少女の顔を覗きこんで大きくはない身をかがめる。泣き止まぬ声は、かすれて苦しそうな息だけが大きく届いてくる。無造作に伸びきったぼさぼさの少女の髪は泥で汚れて、少女のまあるい頬に張り付いている。日番谷はそっと手を伸ばした。ぺり、と渇いた音をたてて日番谷は頬に、額に、張り付いた少女の髪をはがした。隠れた少女の瞳を探すみたいに。ひくり、と少女の肩がゆれる。あぁ、ごめんな。びっくりしたか。小さな声で呟いて、日番谷は指先を少女の頬から離す、闇にも溶けぬ黒々とした少女の瞳があらわになった。

「お前、何処からきた。」

言葉とは裏腹に、日番谷の声は不思議なくらい穏やかに響いた。その声音に少女は泣きはらした顔をあげ、目の前にかがみこんだ日番谷の姿を、まるでこんな人間は初めてみる、と言っているかのように小さな瞳をくりくりと動かす。

「・・・わ、からない。歩いてたらいつのまにか森の中にいた・・・。」

「親は?」

「・・・いない。」

「そうか。」

「・・・一緒に、暮らしてる人はいる・・・」

すぐに連れ合いを探しますと竹添は慌てて言った。その横で視線を少女からそらすことなくあの穏やかな声音で、一言、

「いや、いい、」

と日番谷が告げる。

「どのみちこの時間に動き回ってるほうがあぶねぇ。今日はここに泊らせて、明日手空きの者に頼んだ方が早い。おまえ達も配置に戻ってくれ。」

 

 

おまえ、と

もう一度日番谷は少女に呼びかけた。

 

「今言ったとおりだ、明日必ずおまえの知り合いを探してやるから、それまで待てるな?」

 小さく頷く姿が見えた。この場所は嫌だと、避難所で泣きわめいた少女からは想像できないような素直さで、少女は隊員の節くれだった手を離れた。粗末な衣服の袖から細く脆そうな少女の白い腕が不意に日番谷の顔に伸びる。日番谷がそうしたようにそっと皮膚の上をすべる。片目を細めたまぶたの上で指先がたわむれた。つめたい指先の感触がすっと目の縁ををかすめる。その奥にある瞳を探すように。やがてその指先は上へ上へと伸びて日番谷の硬質な髪にそっと触れてからゆっくりと降りていくと日番谷の死覇装の袖をつかんだ。

「・・・はじめてみた・・・。」

「あぁ。この色か。・・・この姿が怖いか?」

「・・・ううん。怖くない。」

「そうか。」

そのまま立ち上がった日番谷は少女を引き連れて建物の方へゆっくりと足取りを向かわせる。少女は細い足でその後を静かに追った。少しだけ振り返った日番谷の唇が僅かな声音で、竹添に配置に戻ってくれ、と告げた。

「僕、日番谷隊長に子供をてなづける才もあるとは知りませんでした。」

「馬鹿な事を言っていないで配置に戻れ。」

 竹添は、後輩の背中を押した。

 

 日番谷は小さなマッチで火をおこした。溶けて短くなった蝋燭に火を灯す。明かりの灯されていなかった室内に僅かな炎の明るさが影を作ってゆらめく。いつのまにか泣き止んだ少女は声もなく辺りを見回した。幾人かの死神が見張りの交代までの僅かな時間で仮眠をとっている。部屋の隅の僅かなスペースに日番谷は腰を下ろす。少女は先ほど日番谷がそうしたように、日番谷の前に腰を落とした。見渡した少女の瞳にいくつもの斬魄刀が映りこんでいた。斬魄刀は眠りについている隊員のすぐ横においてある。長いモノや短いモノ、形も様々なそれらを少女の瞳はゆっくりと見る。そして少女の視線が日番谷の斬魄刀の上で揺らめいて、止まった。少女の肩が震える。それに気付いた日番谷は少女に問う。刀が、怖いか、と。怖い、そう答えるかと思った少女の声は不思議な強さで日番谷の鼓膜に届いた。

「こわくない、よ。」

それは強がりでも何でもなく本当にそう思っているんだと、振り向いた少女の瞳が語った。

「・・・こわくない、よ。だってこの子、あなたの事とても大事に思ってる。ここにある刀の誰より、あなたのこと大切に思ってる、よ。」

「え?」

「・・・冷たくて、優しいのね。ひとりが寂しいって知ってるのね、だから一緒にいてあげたいのね。」

「おまえ、斬魄刀の声が聞こえるのか。」

「・・ううん。聞こえるんじゃない。感じるの。」

「・・・・。」

「じっと相手を見てね、雨音を聞くみたいに耳を欹てるのよ。そうしたら、胸の中が暖かくなったり冷たくなったりするの。それは嬉しかったり、悲しかったり、寂しかったり色んな色を持ってる。ひとでもものでも一緒よ。」

少女は壁に隔たれて見えない鶴峰山のほうに視線をさまよわせた。

「もう、なんにちも前からわたし、さみしくてしょうがなかった。」

「さみしい?」

「耳をふさいでもふさいでも入ってくるの。さみしい、さみしい、かなしい、かなしい、だれか、って呼びかけるつめたくてこごえるような思いがあの山から感じるの。その声に耳をふさいで歩いていたら、いつのまにか森の中にいた。」

少女は眠たそうに瞼をゆっくりと数回瞬かせた。その瞳は日番谷を見ている。少女の瞳の奥で日番谷の姿が揺らいでいる。

 

「・・・・・へんなひと。」

 

少女の小さな手が母にすがるように日番谷の裾をつかんだ。

「・・・あなたの、そばに来たら、わたし、なにもかんじなくなった、よ。なんでかしら?あんなに、さみしくてさみしくてつめたくて死んでしまいそうだったのに。あなたの想いの方が、つよいからかしら、」

「え?」

「・・・・・あたたかい、ひだまりにいるみたい、・・・ね。」

「・・・・・・・・。」

「・・・で、も・・・・なたも、」

 

(やっぱり、さみしいのね)

 

 少女の最後の言葉は紡がれることはなく、日番谷の方へ倒れこむようにぱたりと力なく横たえた少女からは、すぅ、すぅと小さな寝息が聞こえ始めた。日番谷は少女の体に十の隊長衣をシーツ代わりにかける。無造作に伸びた少女の髪が張り付いた頬を、一滴涙がつたった。眠ったはずの少女の唇からもれた声は、日番谷が誰か知る由もない人の名を、紡ぐ。それは、きっと少女にとってかけがえのない人に相違ない。日番谷は少女に寄り添うように、頬をつたった涙の跡を細い指先でぬぐった。

 

 静かな、戦いの前夜だった。

 

 

 

 

 翌朝、まだ陽も昇らぬ早朝。日番谷は隣で健やかに眠る少女に気付かれないように斬魄刀を手にとった。カラリ、と開けた引き戸から冷たい空気が流れ込む。朝靄の中で直立した死神姿の男達が日番谷を出迎えた。それぞれに厳しい眼差しを向けて、強い瞳だけが日番谷の上で揺れていた。

 

 

「日番谷隊長、ご武運を。」

 

 結界の前で立ち止まった日番谷が大きく振り返った。碧眼の瞳が一人一人の顔を見て、やがて口を開きかけたが、結局何も言うことはせず、最後にひとつ大きく頷いて、竹添が僅かな入り口をつくった結界の隙間から鶴峰山を見上げる。

 

 もう、振り返りはしない。

 振り返ったら、二度と進めなくなる。

 この場所から、一歩も動けなくなる。

 

 それを知っている。

 

 

 日番谷の姿は、ゆっくりとゆっくりと山の奥へ消えていった。