最後の約束

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 チッ、チッ、チッ、チッ、と部屋の真っ白い壁の端に吊るされた時計の秒針が聞こえてくるたびに急いていく気持ちを隠すことが難しくなってきた伊勢は、はじめこそ愛想良くそれなりの笑顔を見せてカステラを食べ、出された玄米茶もごくごくと飲んでくだらない(としか伊勢には思えない)話を、それなりに聞いていたが、刻一刻と時間が差し迫っていくのを感じるとそわそわとせずにはいられずに、案の定自分が口を出すよりも先に、呆れた口調で目の前の金髪美女に指摘された。

 

「ちょっと、七緒。あんた何でそんな落ち着きないのよ。」

 

 ぱっと顔を上げると今まさに3個目のザラメ付きカステラを頬張ろうとしていた乱菊が綺麗に紅のひかれた唇をあーんと大きく開けてその無防備な姿を何の惜しげもなく目の前のソファに腰掛けて所在なくしている伊勢にさらしている。主のいない執務室とはいえ、このふてぶてしさ。伊勢はもう短いとはいえない乱菊との付き合いの長さを思いその月日の中の半分以上の記憶は仕事をさぼっている乱菊なのだという事実に思い至って、ため息を吐く。

「何よ。」

「私が言うことじゃないですけど、いいんですか?」

「何が?」

「何がって、乱菊さん貴女あと数時間で遠征でしょう!今から虚討伐に行くのに、任務の最終確認とか地獄蝶の点検とか、」

「あ、それだったら問題ないわ。うちの優秀な隊員が全部終わらせてるから」

「でも、こんなのんびり・・・だって、今から乱菊サンたちが討伐に行く虚は、」

 言いながら、伊勢はその言葉の軽はずみさに気づいて口を噤んだ。ごくんと喉を鳴らせてカステラの最後の一切れを乱菊が飲み込んでいく。その視線は部屋の中の普段ならあの小さな子供が真剣な表情で仕事に取り掛かる執務机の誰も座られていない空白の席に向けられていて、その目が一瞬穏やかに微笑んだのに気づいて伊勢は息を飲む。

(こんな風に笑う人だったかしら。)

けれど、次の瞬間にはすぐにおどけてだぁいじょうぶよ、といつものようにがははと笑う乱菊の姿が伊勢の目に映った。

「・・本当に大丈夫なんですか?」

「だから、準備はちゃんとしてあるわよ。」

「でも、」

「あんた心配しすぎよ。今回の任務は虚一匹なんだから。」

「でも、私京楽隊長に聞いたんです。隊首会で日番谷隊長が・・」

「知ってるわ。」

「え?」

「その話なら知ってるわ。」

 当然でしょ、というように今までずっと合わせる事のなかった伊勢の目をじっと見た乱菊が笑った。

(あぁ、まただ。また、こんな目をする。この人は。)

「京楽隊長から聞いたわ、管轄外の虚討伐で揉めた上に3人の隊長の反対を押し切ってうちの隊長が引き受けてきたそうね。」

「・・・・知っていて、反対しなかったんですか?」

信じられないというような声で伊勢は乱菊を見た。自分だったら有り得ない事だ。絶対に。こんな無茶な任務を引き受けてきたなら絶対に反対する。反対して反対して絶対に行かせたりしないだろう。

 笑みを失くして少しだけ血の気の引いた伊勢に乱菊はおどけたように笑ってみせる。それは強がりでも見栄でもなく、ただ、自然に浮かんだ微笑だった。

「十番隊の中でも、散々揉めてたのよ。ぎりぎりまでね。」

「当たり前です。十番隊だけで動くのは危険すぎます。失礼ですが、今回の日番谷隊長は安易ではないですか。」

「違うの。」

「え?」

「揉めたのはそういうことじゃないのよ。」

 乱菊は机の上に載せられた皿の上で二切れ残されたカステラに手を伸ばしかけてすぐに、ひっこめた。その指先で長い髪を掻き分ける。その視線が再び執務室の主のいない空席に向けられていて、伊勢は今乱菊の心の中で思い浮かべられている人物が誰なのか、容易く想像できた。

「隊長、一人で行くって言ったのよ。私達を置いて。」

 今度こそ乱菊は皿の上に残されたカステラに手を伸ばして食べないなら食べちゃうわよーと伊勢がそれに答える間もなく甘い生地を頬張った。その香ばしい香りはいつのまにか執務室の中に広がっている。

「そんな・・・無茶です!」

「当たり前よ。」

「・・・なんでそんなに落ち着いてるんですか。」

「そんなの、断固阻止したわよ。当たり前でしょう。私達を、置いていくなんて。・・・有り得ないわ。私を、置いていくなんて。」

「な、何言ってるんですか。そういう問題なんですか?」

「そういう問題なのよ。」

「・・・・。」

「七緒。あんたにも分かるはずよ。」

 何の予備動作もなくすっと立ち上がった乱菊がそのまま隊長席の机の前まで歩み寄るとその広い机の上から一枚の書類を取り上げた。薄い生成り色の紙の上で視線を泳がせると乱菊は誰に聞かせるでもなく、その紙の上にかかれている名を読み上げる。その名は人の名としては無機質で、長く温かみのないまるで記号のようだった。言いなれぬカタカナばかりの長ったらしい名前を最後まで読み上げて乱菊は眉根を寄せる。

「ねぇ、虚の通称名って一体誰が考えてつけてんのかしら。これ、ひどいネーミングセンスだと思わない?七緒。」

「・・・・乱菊さん。」

「・・・・。」

「・・・・・。」

「折れなかったわ、隊長。」

「・・・え?」

 ぱさりと数十センチの高さから手放された書類がゆらりと空気を舞って机の上に静かに落ちていった。記入された虚の生態系は誰の目に見てもお粗末なものだ。真央霊術院の学生でも、これくらいの情報すぐに調べられる。   

 

 それだけ情報が少ないのは、これまで派遣された諜報隊員が悉くやられ、討伐に出て帰還した部隊が一部隊もないからに過ぎなかった。

 

「折れなかったわ、あの人。隊員がどれだけ反対してもね。」

「そんな、じゃあ・・。」

「反対し続けた隊員にあの人なんて言ったと思う?」

「・・・・・なんですか?」

「頼む、って」

「・・・。」

「頼む。残ってくれ。」

そう言ったのよ。

 

 信じられないというように息を飲んだ伊勢を気配で感じながら、乱菊はこうなることを自分は初めからわかっていたようなそんな気がしていた。

 

「一人でいくわ。隊長は。」

 

 これだけの力強さで日番谷を突き動かしていくものが何なのか乱菊にはわからない。見下ろした視線の先に滲んだインクで綴られた虚の詳細情報は、どれだけ眺めていても答えをくれるわけでもなく、ただそこにあるばかりだ。

「それでも、正直私は、意外です。・・・その、乱菊サンが日番谷隊長の決定を受け入れるなんて・・・。」

「ねぇ、七緒。」

「はい。」

「うちの隊長が笑うとこ見たことある?」

「笑うところ?」

そんなの、

ないです。と言おうと思って伊勢は口を閉じた。うつむき、静かに息をはき記憶を辿るように考え込んだ。そしてふと何かに気づいたかのように顔を上げる。それは隊員に指導を入れる時。新入りが恥ずかしそうに挨拶を交わしていく時。何気ない執務室での光景の中で。

「言われてみると、何度か見ているような気もしますが・・」

「・・・そうなのよね。笑うのよ。」

「・・・・・・・。」

 

 

「隊員といるときのあの人がね。大切そうに、笑うのよ。」

 

 

失うことがないように。

 

 

 伊勢は顔を上げた。窓ガラスに写し取られた乱菊の顔がこれから訪れる任務に対する不安でも懸念でもなく、決断の不満でもなく、ただひとり自分がついていくと決めた一人の人のその笑顔を思い浮かべて、ただ、穏やかに笑ってみせた。

 伊勢は瞬きを繰り返す。

その笑顔が、どんなものなのか。乱菊が語った言葉より、心の中で思い描く想像より、色あせた記憶よりも、もっと確かな形で伊勢には知ることができた。多分、乱菊が思っているよりもずっと確かな形で伊勢には分かった。 

 

 けれど、それを言葉にして乱菊に伝えようとするよりも早く、胸の奥にすっと熱いものがこみ上げてきて、伝えようと開きかけた口からすっと息が洩れると、言葉よりも先に目頭が熱くなって伊勢は目を閉じる。

 

 

 

 

 

 

――大切そうに笑うのよ、失うことがないように。

 

 

 

(乱菊さん、)

 

それは今まさに日番谷を想い、ただ穏やかに笑ってみせた乱菊の顔そのものに違いなかった。

 

 

 

 

 

コンコン

と、執務室の扉が叩かれる音がした。はぁいと愛想良く答えた乱菊が伊勢の目の前を通り過ぎていく。泣きたくなった気持ちを抑えて、扉の奥から現れた阿散井を執務室に招き入れている乱菊の姿を伊勢はただ静かに見ていた。それをなんと呼んでいいのかは分からない暖かな感情をそっと胸に抱いたまま。