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最後の約束 |
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淡く光指す執務室の中で、乱菊は一人で立っていた。 窓辺に立つと明るさを増す日差しに少しだけ目を細めて、隊舎へ続く回廊を見下ろす。その場所から見える隊員達の姿にしばらく視線を落としながら乱菊は自分でも知らずに微笑んだ。日番谷との試合がいい効果を現したらしく、皆がどこかやる気に満ちている。それは試合を挑まなかった隊員達にも伝染しているようだった。一つ、伸びをするように腕を伸ばし、乱菊は振り返った。
「さて、仕事しますか。」
執務室の隊長席にはそこに座る主がいなかった。乱菊は自分の席に腰を下ろし、既に積み上げられていた今日の書類に一枚手を伸ばす。それに目を走らせていると控えめな音で扉がコンコンと叩かれた。 「どうぞ。」 「失礼します。副隊長、報告書を提出しにきました。」 扉から現れたのは一人の十番隊員だった。一度礼をして執務室に足を踏み出した隊員は乱菊の前に報告書を差し出した。 「後ほど確認をお願いします。」 そう告げた隊員の視線が主のいない隊長席に揺れた。 あの日、日番谷が乱菊にした願いは、三日、時間がほしいというものだった。 その時間を割くためにスケジュールの変更はすぐに組まれた。隊長の三日の不在は既に隊員達にも告げてあった。 「松本副隊長、・・・日番谷隊長が人に会いに行かれたというのは本当ですか。」 「・・ええ。そうだけど。一度里帰りもする、と言ってたわ。それがどうかしたの?」 「それは、隊長が紅峰で保護した少女を預けた人ですか?」 乱菊は控えめに訪ねられたその声に顔を上げた。隊員の顔はそれに確信をもてないまでも、そうかもしれないという思いを込めれているようだった。乱菊は、この隊員が日番谷に頼まれて少女を送り届けた青年だったことを思い出した。 「・・私は誰とまでは聞いてないけれど。どうしてそう思うの?」 「いえ。そうだったらいいという願望です。僕の。」 「願望?」 「・・・少女を預けに行った日、預かってくれるその方と話をしたんです。・・・隊長にひどくお会いしたがっていたようなので。」 (あぁ、そうだった。) この青年から少女に関する報告書を上げられたとき、彼は何かを言いよどんだのだ。躊躇って彼は結局言葉を口にしなかった。あの時飲み込んだ言葉はなんだったのか。 「きっと。そうだと思うわ。」 乱菊がはっきりと告げると、何かに安堵したように青年はそうですかと、呟いて微笑んだ。 もう一度隊長席を見ながら、それはよかったです。と柔らかな声を紡ぐ。その目がひどく優しげに細められた。何かを思い出すように。
「ねぇ、あの報告書を提出したとき、何を言おうとしたの?」 乱菊の言葉に青年は振り返った。少し決まりが悪そうに苦笑した青年はいえ、と肩をすくめる。 「ただその人が隊長の話をされていたので、それを言おうか迷ったんです。」 「そう。」 「・・・あの方、隊長の話を、僕に色々と聞いていかれました。それから僕らの話も。普段の十番隊の様子など。本当に些細なものを。 おかげで足止めくらって一日あそこで滞在させられたんですよ。報告書の期日が延びてるのはそのためです。」 乱菊は青年のほとほと困りました、という言葉に声を上げて笑った。 「・・いや、笑い事じゃないですよ、副隊長。僕は本気であそこから帰してもらえないのかと焦りましたからね。」 「・・じゃあ、私達は、隊長も三日で帰っては来れないという心構えでいましょう。そういう方ならきっと引き止められるでしょう、隊長も。」 「・・・・冗談になりませんよ。」 乱菊はもう一度声を上げて笑った。青年も釣られて小さく笑う。やがて青年は再び声を紡いだ。今はいない主を探すように隊長席に視線をさ迷わせながら。
「あの方・・・、」 「・・・・・・・。」 「日番谷隊長の事を、話されてましたよ。」 「何て?」 思わず問い返した乱菊に視線を合わせた青年はどこか誇らしげにその言葉を紡ぐ。
「”あの子は、良い人間になるだろう”と。”それから良い隊長に”と。」
一瞬目を見開いた乱菊は、やがて青年と同時に微笑んだ。 (嗚呼、それは、)
私達も、知っている。
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雛森はその日短い休みを利用して西流魂街の潤林安にある生家に帰省していた。懐かしく住み慣れたその家の縁側で日にさらされていると、当たり前のようにまどろみは訪れた。たゆたうそれに身を預けるように、雛森は日の暖かさに誘われながら、浅い夢の中へ落ちていった。夢の中に現れる小さな男の子がいた。白銀の髪を持つ少年は宝石のような翡翠の瞳を携える、とても綺麗な男の子だと夢の中で雛森は思った。その少年と遊んでいると雛森は突然足元にできた氷に滑ってこけてしまった。何故その場に氷が張っているのか理解できなかった雛森はただそれに驚いていた。そして、それを見ていた少年が自分以上にそれに驚いていることに気付いた。よくみれば、自分の足に擦り傷ができて血が滲んでいる。その擦り傷は少し痛かったけれど、雛森にはそれ以上にその擦り傷を見ている少年のほうがよっぽど痛そうな顔をしているのに、気付いた。だから、思わず聞いてしまったのかもしれない。大丈夫?と。本当はそう声をかけられるのは自分の方だったのだろうけど雛森にはそこで声をかけられなければいけないのは少年の方な気がしてならなかった。少年は雛森の声に、はっとした顔をして、それから眉間にシワを寄せて、初めて名前を呼んでくれた。
もも、と。 「桃。」
夢の中の少年の声と重なり合うように声が聞こえて、雛森はまどろみの中から浮上した。薄く開けた目の先に白銀の髪を持つ子供がいた。夢の中のその子よりも少し成長しているその姿に雛森は夢の続きを見ているのかもしれない、とぼんやりと思った。暖かくさす日差しが気持ちがいい。柔らかく吹き抜けていく風が心地いい。懐かしい祖母と、懐かしい幼馴染の声が子守唄みたいに耳をなでていく。もう一度瞼を閉じようとして、けれどそれは懐かしい声が紡いだ言葉に思わず引きとめられた。
「ごめんな。」
まどろんでいた雛森の目は、その時確かに目の前にいる日番谷に向けられた。この言葉も夢の続きだろうか。見下ろしてくる白銀の男の子の顔はあの頃と違って少し穏やかだった。雛森が目を覚ましたことに驚いたように日番谷が少し気まずそうに肩をすくめた。
「・・・・桃。こんな所で寝るな。風邪ひくぞ。」
覗き込むようにしていた日番谷がふいに顔を上げてはなれていく素振りをした。雛森は今だまどろみの中にたゆたっていたけれど目の前にいる日番谷にゆっくりと手を伸ばす。
「桃?」
伸ばした雛森の手が日番谷の綺麗な白銀の髪に触れる。その毛先を指先でつまんで雛森はちょっとだけ引っ張った。すぐに、いて、という声が聞こえて雛森はふふふと笑う。日番谷が呼ぶ名が昔のそれと同じことにくすぐったさを感じた。
「・・・髪が伸びたね、シロちゃん。」
これが夢の続きでないことを雛森は知った。だからきっとあの謝罪の言葉も決して夢の中のものではないはずで。確かに自分に向けられたその言葉を胸の奥で思いかえした。
(・・・・何を謝っていたのかは、聞かないでおくよ、シロちゃん。)
「こんな所で寝るな。」 「うん。気持ちよかったからつい瞼が落ちちゃった。」 「昼寝するなら、布団入ってろ。」 「ううん。それよりここでひなたぼっこしてたい。シロちゃんいつ帰ってきてたの?全然気付かなかった。乱菊サンから話は聞いてたけど、いつまでここに滞在できるの?」 「・・・明日の朝には発つ。」 「そっか。私は夕方過ぎには瀞霊廷に戻るからあと少し一緒にいられるね。」 その時隣の部屋から祖母の声が聞こえた。日番谷を呼ぶその声に、雛森の横にいた日番谷は立ち上がった。襖を開ける音がして、すぐに日番谷の少し優しげに響く声が聞こえる。
「婆ちゃん、ただいま。」
この家に帰ってきて真っ先に雛森の元に訪れたらしい日番谷が祖母に帰宅の挨拶をしていた。そのあまりにも当たり前にごく自然に訪れた目の前の光景に、胸がじわりと温かくなるのを雛森は感じていた。当たり前すぎて、それは本当に当たり前すぎて、見落としてしまいそうなものなのに。けれどそれは淡く灯るともし火のように確かにこの胸にある愛しいものの一つで。
(ああ、そっか。) 雛森は、気付いた。分かたれた道を振り返る必要などなかった。それを寂しく思う必要などどこにもなかった。 共に育った時間もこの場所も、そこから培われていったものは皆この手の中にあった。 これから先、どれだけ彼が高く上りつめていっても、手の届かない所へ行ってしまっても、二人がただいま、と笑顔で帰ってくる場所は、いつもここしかない。
昼食ができましたよ。三人で食べましょう。 という祖母の声に雛森は立ち上がった。囲炉裏の傍まで歩く。そして、雛森は今更ながら日番谷に声をかけた。そのあまりの今更な言葉に日番谷は驚いていたけれど、雛森は気にしなかった。目の前に座った日番谷と雛森の間に暖かいご飯の湯気がゆらゆらと揺れているのを見ながら、きっとここで何度もそれを口にしたことのある言葉を雛森は紡いだ。 どれだけ時がたってもきっとこの言葉を言える。この場所で。それがどうしようもなくいとしかった。 その暖かさに満たされて雛森は、笑った。
「シロちゃん。おかえり。」
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