最後の約束

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 道場の真ん中に引かれた開始線に立ち、真正面を向いて、こちらに寄せられる視線を静かに見返していると不意に満ちていく力があった。

 いまだ慣れぬ右腰に差した斬魄刀からそよ、と流れ込む霊子の末端が空気の中で踊るようにゆらりと視界の端で揺れている。この刀を持つ者にしか目に映らぬそれは絡みつくように壊れた右腕に寄り添った。

 

 大丈夫。

 

 心の中だけでそう呟くと、柔らかくさらりと肌をなでた霊子は再び斬魄刀の形へ収まっていく。

 視線を降ろし、斬魄刀を目だけで撫ぜる。その気配に喜んだのか、再び体の中に霊子が満ちていく。

 

 斬魄刀との静かな、対話。

 

 思わず零れる笑みに、寄せられる視線を感じて目だけを上げるとその光景がどういう意味だったかを理解しているかのように、ただ見守っていた隊長の目と合った。硬く口を引き結んで真剣な翡翠の瞳を向けるその姿に、もう一度笑みがこぼれる。

 

「心配はいりません。」

 

 気持ちを先回りして、安心してもらうために静かに言うと、きまりが悪いように隊長は笑った。どれだけ言葉で尽くしても、きっとこの人から向けられる気遣いは変わらない。それを本人に気付かせないように労わりを与えるこの人は、今きっと目まぐるしくこの体を案じていた筈だった。こんな風にこの人の想いに気付くようになったのはいつからだっただろう。

 

 戦場から身を遠ざけて、幾月。

 いつのまにか指まで細くなった。自分の手ではないようなそれをいつの日だったかこの人に強く、握り締めれられた事がある。ふわりと浮上する記憶を押しとどめ、細くなった指先で斬魄刀の柄に触れた。指先から流れ込む霊力を確かに感じ、少し伏せていた瞼を上げて、もう一度隊長に目を向ける。何故か必要もないのに、そういう気持ちになって、隊長の前で真っ直ぐに立ちながら、静かな目礼をした。それは意識を向けていなければ、気付かないくらいささやかな物であったのに、目の前に立つこの人はそれさえも理解して、頑なだった空気を少し緩めた。

 それを見て、少しだけ驚いた。

 

(あぁ、この人は、今、)

 その瞬間寄せられていた気遣いが薄れてただありのままで、真っ直ぐに立つ隊長の姿があった。

 波が寄せるように訪れる氷雪の気配。その冷たさに触れて、胸に沸いたのは、喜び。

 本当の意味で、戦う事を受け入れてくれたのだと、気付く。

 言葉ではない。

 心の内で受け入れられた思いに、声にはならない言葉を胸の内で響かせ、僕は右腰に差した斬魄刀を握る。

 ちらりと視線を横にし、こちらをずっと見ていたらしい十番隊副隊長である乱菊さんに静かに頷くと、了解したように頷き返された後で、不思議な静寂が満ちた道場に、始まりの声は響いた。

 キィン、と鋭い音で鞘走る音を左耳で聞いて、躊躇わずに抜刀した。

 

 

 

 

 

 

「あぁ。吹花擘柳だ。」

 

 

 皮肉にも死神として、初めて立つ最前線で、彼と出会った。力を持ち、矜持を掲げ、強靭な精神を持つものばかりが集るその場所に不釣合いな子供の姿で、彼は一人だけまとう空気が違ったように思う。

 指揮をとるその姿は勇敢にして、苛烈。

 一瞬で惹きこまれ、続いて、空気を凍てつかせ光を彩る、氷雪の祝福を受けた霊力に、思わずなす術もなく戦地に立ち尽くしたまま、息を飲んだ。

 戦場の、目も当たられぬ光景に、彼が降らす銀雪だけが降り注ぐ。

 これが夢だと強く言われれば、それを信じた。

 それほどに、残酷で美しい光景を目の辺りにしたのだから。

 

 席次もない死神であった僕に戦地でまとっていた鋭さを消した柔らかな気配で、彼が近づいてきたのは陽も昇った頃だった。

 空気の中に手を伸ばし、何かを掴むような仕草をし、あぁ、吹花擘柳だ、と彼は呟いたのだ。その声の柔らかさを忘れない。まるでいとおしむ様に見えないものを掴む彼の手の中にあるものに、驚いた。何処か確信めいてこちらに向けられる目が、驚くほど澄んでいた。あの時返した言葉を覚えていない。きっと何故と問い返したのだろうと思う。何故、それを。虚空を掴んでいるかのように伸ばされた腕が触れているのは、目に見えぬ大気を揺らす、風。その風に戯れる彼が何かを懐かしむように目を細め、少しだけ笑う。ひとしきりその風に肌をさらして、やがて、

 お前の霊力だな。

 と穏やかな声で、告げられた。

 

 それが初めて交わした言葉だった。

 

 

 もし、この身に与えられた力が目に見えるものであったならば驚きはしなかった。あるいは鋭さを持つ疾風、激しさを持つ列葉風、ただ強さだけを携えた神立。嵐のように吹き荒れるいなさであったのなら、それが霊力と知ることは容易い。けれどこの身に与えられた力はそのどれとも違う性質を持つ。それと気付かなければ分からないほどにそよぐ、風。吹花擘柳。それが己の持つ力なのだと言い当てられたことは初めてだった。何故気付いたのかと問い返した言葉に優しい声が紡がれる。

 

「・・・あぁ、だって、ほら。こんな季節なのに、花が芽吹いてるだろ。」

 

風の中で大地を彩る花が、

開き始めていた。

 

 

 

戦地で咲く花の名は知らない。

そう言って、笑い、ただそれに澄んだ目を向けた人がいる。

 

 

 

日番谷冬獅郎。

その名を初めて知った瞬間だった。

 

 

 

 

 

 道場の真ん中で剣を交えていると、ずっとこうしていたいような不思議な気になった。竹刀よりも鋭くかち合わされる刃に走る火花。耳を突く音。その全てに溢れ出る想いが零れていく。

 淡い翡翠の色を帯びる隊長の目に、時折自分が抱いているものと同じものを感じながら、それが決して憶測ではない事を何処かで知っている。

 

 かつて、

 この人の後ろを駆け続けた日々があった。

 

 

 そして、

 共に戦地にたった日は、光矢の如く過ぎ去った。

 

 

 今再び斬魄刀を手に取り、あの日の出会いを思い出す。

 あの時、胸の奥で、まるで祈りのように、誓いのように、強く抱いた思いがあった。

 それが色鮮やかにあの頃のまま胸に沸く。

 それを強く胸に抱いたまま、出会った日を決して後悔はしない。

 かつて共に戦った日々に思いを馳せ、剣を強く握り締めた。

 

 

 

 

 

 やがて、長くと願うその時間に終わりが来る事を知った青年は静かにそれが来るのを待った。 

 

 霊力の枯渇。

 息を整え、立ち止まった青年は、同じように動きを止めた日番谷を見る。動かなくなった体の機能を霊力で補っていたせいか、その消耗は著しい。放たれる霊力は既にない。

 

(・・・ここまでか、)

 

 一つ息を吐くと、こちらを見据えている目と合った。ただ静かに向けられる感情。それを正面から受け止める。それに微笑を返しながら、青年はひとつ、振り払うように斬魄刀を下ろした。

 

ありがとうございます、と。

 

 

 言葉を紡ぐ代わりに、

 一度だけ礼をした。

 

 

「・・・勝者。日番谷。」

 

 

 続行不能を知った乱菊の声が試合終了の声を紡ぐと共に、青年は額に汗を滲ませたままゆっくりと歩を進める。真摯な目を向ける日番谷をしっかりと見据え、青年は日番谷の前に立った。

 

 

 かつて、

 

 

 この人の涙に

 救われたことがある。

 

 忘れえぬ戦場で。

 

 自分のためには

 零れることのないであろう涙を

 彼はこの手の中に、零した。

 

 

 

 

 

 ゆえに、

 この身は、何度でもこの人の前にかしずく。

 

 

 

 青年は躊躇わずに身を屈め

 日番谷の前で片膝を床につけた。

 

 握っていた斬魄刀を指の先に乗せ、額の近くで掲げる。

 

 

 目を上げると、驚いたように揺れる日番谷の目と合った。

 

 

 

 

―剣の誓い。

これが今与えられるものの全て。

 

 

 

 かつて戦場で、

 そよ、と吹く風に吹かれて

 つぼみを開かせる花に、

 貴方は、微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 あの時のように、

 痛む過去の上にも。

 

 

 

 

 

 

 

 ――せめて枯れぬ花(思い)を。