最後の約束

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 少女は走っていた。

 一本道を真っ直ぐに走って森を抜けようとしていた。大丈夫。大丈夫。そう心に言い聞かせながら、けれどたまらなく不安でどうしようもなかった。 

 

 立ち止まってしまえば、今にも溢れてきそうな涙で身がすくんで、きっと立ち上がれない。それをどこかでわかっているから少女は怖くて怖くてたまらないのに、必死で走り続けている。少女の体は貧弱で走れば足がもつれてなかなか思うように進まない。時々つんのめって皮膚をひっかいて、すりむいても少女は走り続ける。大丈夫。大丈夫。そう心の中で唱え続けながら少女はさっき出会った男の事を思い出していた。

 

(あの人が助けてくれる。助けてくれるって言ったわ。あの人の心は、)

 

 優しく体を持ち上げて、目にたまった涙を指でぬぐってくれた。あのほそい指のぬくもりを思い出せば、何か温かいものが胸に込み上げてくる。それを思い出しても頬がくすぐったいような気になった。か細く、闇に消えていこうとしていたあの人の’声’に、恐ろしくなった気持ちがあの瞬間和らいだのだ。だから、少女はこうしてすくんでしまいそうな体を今も動かせている。

 会いたい。

 脳裏に鮮明に思い出される姿は、大人の人たちよりもまだ子供と呼ばれることのほうが相応しいような人だ。白銀の綺麗な髪。翡翠のガラス球みたいな目に優しさを滲ませていた。呼びかけてくれた声はものすごく優しくて険しい表情でいるのがおかしいくらい。額と頬に張り付いた髪をはがしてくれた。その指先がふれたぬくもりが思い出される。あの人の傍にいると寂しくてどうしようもなかった気持ちが暖かいものに包まれたようになって陽だまりの中でひなたぼっこしているときみたいな気持ちになった。

 

 

 

 

 

 ねぇ。行ってしまわないで。

 戻ってきてくれるでしょう。

 ここで貴方に会いたいと思っている人が沢山いる。

 貴方が会いたいと闇の中にいこうとしていた気持ちと同じ強さで。

 ここで貴方を待ってる人が沢山いる。

 

 その気持ちに触れると、なんだか胸の辺りが暖かくなるわ。

 ここで貴方を待っている人も、貴方も、貴方の刀も、みんな同じね。

 

 どうしようもなく、大切なのね。

 

 ねぇ、そうでしょう。

 この暖かさはそういうことでしょう?

 

 大切に想うからこんなにも胸の奥が暖かくなるのでしょう?

 

 その気持ちに触れると、なんだか泣きたくなるわ。

 

 

満たされて、

溢れて、

なんだかもどかしくて、

くすぐったくて、

落ち着かなくて、

 

涙が溢れてくる。

 

おかしい?

わたし、涙が出るのは悲しいときだけだと思ってた。

 

でも、違う。

 

 

 

 

 

暖かいものに溢れたときも、

人はきっと涙が出るんだわ。

 

 

 

 

 やがて少女の視界に森が開け、元いた場所が見えてきた。沢山の大人の声が遠くで聞こえ、黒い袴を着た男達がざわざわと慌てた様子で何かを取り囲んでいる。少女はぜぇぜぇと肩で息をしてそこに近づいていく。その人だかりの中の一人が不意に、振り向いた。少女を見るとその人は、その場所を離れ、躊躇わずに少女に向かって走ってくる。それを見て思わず立ち止まってしまった少女は、少し怒っているような表情で近づいてくる男に驚いて一歩あとずさった。やがて顔がはっきり見えてきて、男を見上げていた少女はその人が、夜の森の中で迷子になっていた自分を見つけてくれた青年だということに気付いて、少しだけ胸をなでおろす。けれど青年はやはりどこか怒ったような顔つきで少女の傍によると少女が知っている青年の声よりも大きな声で少女に言葉を放つ。

 

「・・・お前、何処に行ってたんだ、こんな時に。虚討伐があると言っただろう。危ないから、ここを離れるなといったのに。ああ、どうしたんだ。膝すりむいてるじゃないか。転んだのか?見せてみろ。他に怪我は?一人で、どこいってたんだ。」

 まくし立てるように言葉をいい、少女がオロオロするのも気に留めない様子で青年は少女の膝についた土を払った。それを見下ろし、少女は小さな声で問う。

 

「あ、あの人は・・・・?」

 

 少女の声に顔を上げた青年は急に険しい表情をした。少女が問うた人物が誰かを正確に読み取って、言葉を噤んだのだ。その瞳が一瞬青年がさっきまでいた人だかりの方に揺れた。跳ね上がる心臓を押さえるように服を握り締め、少女はふらりと歩く。その後を青年が静かに追った。

 

「・・・隊長!」

「日番谷隊長!」

 

 男達が呼びかける声の中心にその人は横たわっていた。取り囲んでいる男達が何か沢山言葉をかけていたけど、吸い込まれるようにその人を見ている少女の耳には届かない。大きな体の男達の間を縫うように、押し分けていると誰かが少女の肩を掴んでやめなさい、と言ったけれど、少女は聞こえない。

 

(いる。目の前に。あの人が。)

 触れたくて。触れたくて。たまらなかった。手を伸ばす。男達に阻まれて届かない。それでも、少女は手を伸ばす。

(目を開けて)

 少女は心の中で呟く。

(声を聞かせて)

 伸ばした手が届かないのがたまらなくもどかしい。確かめたいのに。すると、少女の前に道が開けた。驚いて見上げると、さっき駆け寄ってくれた青年が誰か他の見知らぬ男達に道を開けるように言っていた。阻むものがなくなった少女は、躍り出るようにその人の元へかける。

 倒れこむように傍にしゃがみこんだ。

「怪我をされてます。あまり触れないように気をつけてくださいね。」

 見知らぬ人の優しい声が少女の耳に届いたけれど、少女は答えることができなかった。目が涙でいっぱいになる。それがぼとぼとと落ちていく。視界がぼやけて少女はたまらなくなった。もっとしっかり顔が見たいのに。溢れ出る涙が止まらないのだ。

(・・・帰ってきてくれた、)

 恐る恐る伸ばした少女の手が、頬に触れようとして躊躇われた。そのままひいていく右手は横たわっているその人の袖をぎゅっと握る。よかった。戻ってきてくれた。よかった。安堵に手が震えた。その手の甲に涙がぼとぼとと落ちていく。

(あ、)

 言葉を飲み込む少女の目に、その人の瞼が小さく震えるのが見えた。その瞼をじっと見ていたら、やがてゆっくりと目を開く。すぐに一度、伏せられた瞼が、再びゆっくりと開かれる。目だけが周りをさまよい、その視線が少女に向くと翡翠の綺麗の色がじっと少女を見ていた。吸い込まれるようなその目に少女は言葉をつぐんだ。こんな風にじっと誰かに見られたことがなくて、少女は逃げ出したいような気になったけれどじっとこらえてその目を見ていた。その目が少しだけ揺れた。優しげに。その瞬間、少女の目からまた涙が溢れ出てきてしまった。少女が握っていた袖がクッ、と動く。思わず手を離すと、重そうなゆっくりとした仕草でその人の腕が少女のほうに伸びた。けれど、持ち上げられた手は少女の頬に届くところまで上がることはなく少しだけ空をさまよった後で静かに下ろされる。

「・・・ああ、」

 声が聞こえた。その声の穏やかさに少女は驚いた。たった一言が少女の耳を優しくなでていく。

「おまえだったんだな」

 何かを納得したように少しだけその人は笑った。またゆっくりと瞼を閉じ、再び開いた目はしっかりと少女を見上げていた。

 

「・・お前の呼ぶ声が、聞こえたよ。」

 

 少女はその瞬間、その人の横たわった手をぎゅっと握った。痛いかもしれないと思ったけれど、込める力を緩めることができなかった。深く頷いた。その顔からぼとぼとと涙が落ちていってその人の手にも落ちていくけどどうしようもなかった。微笑んだ顔からゆっくりと息が吐き出されて、再び瞼が閉じていく。唇はもう動かなかったけれど、その瞬間その人が言った言葉を少女は心の中で確かに聞いた。

 

 

―ありがとう。

 

 

 

 

 

 瀞霊廷に足を踏み入れたのは夜半をとうに回った月に叢雲がかかる日だった。明朝に正式な連絡を約束し、数名の席官にだけ帰還を知らせたはずが、四番隊救護詰所には既に主の安否を気遣う十番隊員達が扉に群がっていた。皆が、夜着に羽織をかろうじてかけてきただけの姿で四番隊に押し寄せている、その後ろから乱菊は隊員たちと同じような格好でその人だかりにかけていく。

「ちょっと、あんた達止めなさい。何時だと思っているの。」

 その声にあからさまな安堵を浮かべたのは扉の前を陣取っていた四番隊員だった。押しかけてきた十番隊員をなだめるのに四苦八苦していたらしいその四番隊員は助けを求めるように乱菊を見上げくる。その様子に瞬時にこれまでのここの状況を悟った乱菊は深くため息をついた。隊員達の間へ押し入り、不安と安堵とごちゃごちゃになったような複雑な表情で恨めしげに見上げてくる隊員たちに苦笑を滲ませながら一人一人に声をかけるように視線をさまよわせる。

「ほら、もう止めなさい。他に患者もいるのよ、迷惑でしょう。戻りなさい。」

「でも、」

「こんな人数で押しかけたら、隊長もびっくりするでしょう。」

「でも!」

「中に入るのは私と三席だけ。他は戻りなさい。ほら。いいから。戻って。隊長は無事だと卯の花隊長も言っていたでしょう?そんなに心配なら隊長の様子を見た後で連絡を入れてあげるから。ほら、部屋に戻って休みなさい。明日も仕事はあるんだから。行って。」

 粘ろうとする隊員たちをなんとか説き伏せ乱菊と三席は渋々帰り着く隊員達の背中を見送った。では、と改めて乱菊と三席は扉の前に立っていた四番隊員のほうに振り返る。

「申し訳ありません。松本副隊長。助かりました。何を言っても、会わせろ、日番谷隊長の様子を見せろと言って聞かないものですから、少々困り果てていまして。」

「こっちこそ迷惑かけたわね。あの子達には朝連絡をいれようと思っていたのだけど、どこから聞いてきたのかしら。」

「・・・それで、隊長の様子は。」

 待ちきれない、というかのように三席が割って入った。それににっこりと微笑んだ四番隊員は静かに扉を開ける。

「ぐっすり眠っておられますよ。中に卯ノ花隊長と荻堂八席がおりますので、詳しい話はそちらで。」

 では、私は他の患者がおりますので、これで。

と、頭を下げて出て行く四番隊員が扉を閉める音を背中に聞きながら、乱菊は踏み入れた部屋の眩しさに目を細める。目の前に卯ノ花がいる。その微笑んだ顔が乱菊と三席を見て、緩やかさを増した。目だけで部屋の隅に促し、乱菊は卯ノ花に目礼する。そこに視線を向けると荻堂が静かにカーテンをめくり、気遣うように何もいわずにその場所から離れていく。乱菊は足早になって部屋の隅に置かれているベッドに寄った。

「・・・隊長、」

 息を飲むような三席の声が乱菊の後ろから聞こえたけれど乱菊は振り返らなかった。見下ろしたベッドに静かに横たわっている日番谷の寝息を静かに聞きながら、この声を例え彼が聞いていなくてもどうしてもいわなければいけない。眠ったままの彼の姿に乱菊は静かな声を紡いだ。

 

 

 

「おかえりなさい。隊長。」