最後の約束

-50-

 

 

 過ぎていく時間を振り返る強さは自分にはない、と荻堂は思っている。できるのならば捨て去ってしまいたいとさえ思っている。重いものはもちたくないのだ。その重さに歩みがとまる。それが恐ろしい。

 だけど、この子供は頑なにそれを手放そうとはせず、再び戦いに行ってしまった。誰にも言わずに、一人で。この子供がひどく大人びて見えていたのは、彼の覚悟が常にまっすぐ彼の心の中心を貫いていたからだろうか。同じときを共有した、そんな甘い響きで全てを分かり合えるほど簡単ではないし未だに彼を知らない。想いは天と地ほどもかけ離れている、と感じたばかりなのに、見下ろしたら寝息を立てた子供は普段彼を纏う凛とした雰囲気を和らげてあどけなさを残した顔をしていた。その顔が、あの頃にそっくりな事に今更ながら、気付いた。

 先ほどまでこの場所にいた十番隊副隊長と三席は半刻前にここを出ていった。診察室には卯ノ花と荻堂が残され、やけに熱意を込めたような眼差しで隊長をよろしくお願いしますと、頭を下げた十番隊三席を見送ってからは嫌がらせのように荻堂は日番谷の顔を手ぬぐいではたいていた。時々、嫌そうに日番谷が眉をひそめたけれど、起きる気配はない。深い眠りの中で、日番谷は随分と穏やかな夢をみているようだ。

 ベッドの脇に置いてある椅子に腰掛けて、うだるように頭をベッドに寄りかからせる。視線だけは上げると日番谷の顔がすぐ近くにあった。それを言葉もなく見ながらこの部屋にある沈黙に、荻堂は同じ場所にいる卯ノ花に感謝する。今何かを問われたら、張り詰めているものが崩れ落ちていくような気がする。

 

 かさかさ、

 と、紙をめくる音が聞こえてくる。カチャリと何かが触れ合う音も。背後では卯ノ花が薬を調合しているのかもしれない。そんなことを音だけの情報で知りながら、荻堂は伸ばした手で日番谷の髪を引っ張ってみた。反応はない。すぐに、後ろで荻堂八席、と諌められたので荻堂は素直に手を引っ込めた。

 目の前にいる子供は、あの頃とそっくりな顔をしたあどけない姿でいるのに、彼は誰もが認めた十番隊長で。それは何者にも揺るがせない事実。 

 

 彼が十番隊の隊長であるという事実を思うだけでじんとしたものが胸をすくう。それを感じたくなくてかき消すように荻堂は立ち上がった。はぁあああ、とやけに長く盛大なため息をこれ見よがしに吐く。

 

「・・・久々に、こう腸が煮えくり返りそうになったというか、とにかく腹立たしいというか。」

 

 呟きながら日番谷の隣に並んでいる空きベッドに崩れ落ちるように横になった。片腕を瞼の上に上げ、眩しい部屋の光を遮る。

「・・・荻堂八席。」

 すぐ傍で卯ノ花の気配がして、労わるように静かに立っている姿が簡単に想像できた。

「ありがとうございます。」

 卯ノ花の言葉は荻堂にも容易く想像ができて、けれど何がと問うほど深く想いを知りたくないような気がして言葉を濁す。きまづさからか代わりに違う言葉で話を変えることにしてしまった。

「現世の任務は・・・」

「伊江村三席に出ていただきました。心配は不要です。」

「そうですか、」

「荻堂八席」

「・・・・・はい、」

 

「本当に、ありがとうございました。」

 きっと息を詰まらせたのが気配で卯ノ花にはわかってしまっただろうと荻堂はぼんやりと考えていた。

 日番谷隊長は紅峰に虚討伐に向かいました、と静かな声で地獄蝶から伝えられたときの事を荻堂は思い出す。

 選んでくださいと、言った声は優しかった。

 

 

 今でも、貴方はあの方たちを助けたいと走れますか。と。

 

 

 長い沈黙が何に対してなのかはわからなかった。卯ノ花はずっと荻堂の傍に立っていてそれを荻堂もわかっている。やがて荻堂は静かに言葉を紡ぐ。

 

「卯ノ花隊長、」

「・・なんでしょう。」

 

 

「僕は、良い四番隊員にはなれそうにありません。」

 

 荻堂は光を遮っていた腕を下げて卯ノ花を見上げた。それを全身で受け止めるかのようにしっかりと荻堂を振り返った卯ノ花は静かに荻堂の言葉を待っているようだった。瞼を閉じる。胸に過ぎていく思い出をかき消すのは限界だった。

 

「怪我を負った日番谷隊長を見たとき体が震えました。」

「・・・・・。」

「吐き気がして、逃げ出してしまおうかと思いました。」

 

 

―僕は血を見ると卒倒しそうになります。

 

 

 懺悔のように震えた声が、止まった。

 あの戦に最後まで携わっていたのは、四番隊員の中では一人しかいない。それが自分だった。単に逃げ遅れただけだ。最初の討伐で当時の指揮官に四番隊員は直ぐに撤退するように指示が出され四番隊員は命を受け入れて瀞霊廷にひいていったのに、たまたま目の前に重症患者がいたことで一人だけ機会を逃しただけのこと。

 大儀も忠誠も掲げていない。目の前に死にそうな人がいる。それだけがあの戦で最後までひくことのできなかった、理由だ。

 駐屯地が紅峰に移り、討伐の終わりごろ、日番谷はふらりと現れた。自分の知らぬところでいつの間にか討伐隊に加わっていた。怪我人の手当てをしながら何度かあの駐屯地で彼の姿を見かけたことがあるけれど、話をしたことはなかった。それよりも目の前で死にゆく隊員達のほうが重要で、離れに集められていた怪我人を収容していた家屋に荻堂は引きこもっていた。

 あの戦で何人の十番隊員を、この手で看取ったか知れない。

 四番隊の死神として一生分の死は、あそこで見取ったと思いたい。

 

 あの戦から生き延びて、荻堂は、血を見れなくなった。

 

「血を思い出すと、今でも手が震えます。」

 顔の前に掲げた右手がぶるぶると無様に震えていた。それをぐっと手を握ることで押さえつける。四番隊員としてこれほど、情けないことはないだろう。血を見ると逃げ腰になる四番隊員など笑い者だし使えない。

 辞表を出したのはいつだったか。それを見下ろした卯の花が何故か悲しい顔をして受け取れませんと言ったことは覚えている。実際あの当時の自分は助けられない命を思い出して無力さを思い知っていてとても使えたものではなかったはずだ。それなのに目の前の卯ノ花は、貴方のような人が四番隊には必要です、と言って絶対に辞表を受け取ってはくれなかった。

 治癒の能力だけならば、三席にも引けをとらない力を持っているけれど、八席に甘んじているのはそういう理由もあった。

 

「あの頃よりはだいぶマシになりましたが、今でもこれです。僕はきっと良い死神にはこの先もなれないでしょう。」

「・・・荻堂八席、それでも貴方は日番谷隊長を助けてくださいましたよ。」

「それは結果論でしょう?次は、分からない」

「それでも、貴方しか彼を助けることはできなかったと思います」

「・・・何も考えずに駆けつけてしまっただけです、覚悟などありませんでしたよ。あの時も。今も。」

 

―ただ、目の前にあるものに必死で。

 卯ノ花の指先が不意に荻堂の右腕に触れた。暖かい気配が肌をくすぐる。それを見下ろすと卯ノ花の指先に霊力が集められていた。卯ノ花が触れている腕を見るとうっすらと血の滲んだ引っかき傷があった。どこかで引っかいたらしい。それが卯ノ花の指先に触れられてすぅ、と綺麗に跡形もなく消えていく。

 

「貴方は立派な四番隊員ですよ。昔も。今も。」

 

 卯ノ花は静かに背を向けて歩いていった。かりゃり、かちゃりと音がして薬品の独特の匂いがし、静かな沈黙が再び訪れた。

 

 

 日番谷冬獅郎。

 と、いうその人物が苦手だった。この子供を見るたび、記憶はあの場所にいやおうなく結びついていく。だからこれまで彼に話しかけたこともなかったし、逆に彼から話かけられることもなかった。もしかしたら、こちらが苦手意識を持つのと等しくこの子供も同じ気持ちを持っていたかもしれない。顔を付き合わせるたび、蘇るものが悪夢ではたまらないだろう。まともな言葉を交わしたのが最後の鶴峰山戦だったのもよくない。それでも、あの頃の彼が十番隊にとってどんな存在だったかは荻堂は知っている。彼と直接関りなくても彼と関った十番隊員を見ていればわかることだ。

 

「・・・・・誰もが・・・、もうだめなんじゃないかと、明日はみんな死んでしまうんじゃないかと不安を押し殺していた中で、冬獅郎だけはまっすぐに前を向いているような気がしました・・・。」

 

 静かに語られる荻堂の声に答える言葉は聞こえなかった。ただ聞いている。卯ノ花の背中は全身で耳を欹てている。それをわかっているから、今更ながら目頭が熱くなる。あの戦から帰ってきて、あの場所であったことを荻堂は誰にも話したことがない。一言も語ることはなく今日までひっそりと過ごしてきた。けれど、今は話したい。何故か。

「・・・・・それが、みんなには眩しかったのかもしれません。子供特有のひたむきさは拙くて、戦場では甘いの一言ではねのけなければいけないようなものでしたけど、何故か彼は家族のように受け入れられて、とても可愛がられているように見えました。」

 

 怪我をしたとある隊員が急に笑顔を見せた日の事を思い出せる。彼はなにやら嬉しそうに六番隊の子供が、と話をしていたけれど、当時は誰の事を言っているのかわからずに適当に相槌を打っていた。あんな子供が頑張ると言っているのだから、俺ももうひとがんばりしなきゃならねぇと笑って、そういってからのその人は本当に怪我が回復していったから驚いたのだ。その人は、結局夜襲で討死された。

 

 押し寄せる過去に、刹那瞼を閉じる。

 

 

―四番隊員はすぐに、撤退を。

―なぜ、残るの、貴方も一緒に行くのよ。何言ってるの、だめよ。

―荻堂十二席、すまんなぁ、俺はもうきっと駄目だ。

―貴方がいてくれたおかげでどれだけ助かっているか。

―もう、いいんだ。君は瀞霊廷に戻るんだ。荻堂君。

―荻堂、ありがとう。

―怪我治してくださいよ、荻堂さん、

―荻堂さん、手伝います。ぶっとおしで治癒したら貴方が死んでしまいますよ。

―いや、君のおかげですっかりよくなった。これでまた戦いにいけるってもんだ。

―・・・もういい、荻堂十二席・・・・、ありがとう。

 

 

 

 深く息を吐いた。

 助けられたものより、助けられなかったものの方がずっと多い。それでも、自分に最後までありがとうといい続けた彼らに荻堂は心の中に溢れてくる思いを押し込める。

 隣を見た。子供が穏やかに寝息を立てている。腕を伸ばしてみたけれど、届かない。けれど子供は目の前で生きていた。あの時死んでゆく彼らは同じ言葉を残して去っていってしまったけれど、荻堂は何故だか同じ言葉を彼に告げたくなって誰も聞こえないような小さな声で、隣で眠る子供に言葉を紡いだ。

 

 ありがとうございます。

 

 

「・・・・・よかった、あなたが生きていてくれて。本当に。」

 

 力なく腕を下ろして、荻堂は瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 日番谷が目を覚ますのはそれから二日後の朝のことだった。