最後の約束

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 パァン

 と弾かれた音は他に誰もいない五番隊の執務室に乾いた音を響かせた。力に抗わずに流れる視線に、眼鏡の奥で静かに憤る熱が見える。与えられた痛みは頬で疼き、口の中では僅かに鉄の味が広がっていった。この男が頑なに言及をしないのは気高さからか。結局、目の前の元上司は吐き捨てるようにひとことだけ言葉を投げた。

 

「一度だけだ、」

 許すのは。

 

 そう続いただろう言葉を市丸は胸の奥で思い浮かべて背を向けた上司がもう何も言うことはないと知っているから、見えていないとはわかっていてもその背に頭を下げる。

 踵を返して歩き出した。

 

 

 回廊は人気がない。当たり前だ。あの男がそういう風に仕向けている。誰も寄り付かぬように。けれど、市丸の背後に静かに忍び寄る人影が一人だけ。それには視線も向けず歩き続ける市丸ははたから見れば独り言のように何もない空間に言葉を紡ぐ。

 

「告げ口ゆうんは女々しいおすなぁ。」

「私は事実を報告したまでだ。市丸。何故あそこで日番谷を助けた。」

「まだ、生きとったからやないですか。死んでへんのに魂魄は回収できません。」

 

「・・・裏切る気か。」

 

 そこで市丸はくるりと振り向いた。歩いてきた回廊はやはり誰もいない。ただ押さえつけようともしない殺気を放つ気配だけがある。そこに向かって市丸は笑いかけた。

 

「何を言うてますのん?」

 

 返事はない。笑いながら再び前を向いて歩いていく市丸についていく影は、もうどこにもなかった。

 

 

 

 

 日番谷は何度か浅い夢と覚醒を繰り返していた。どこまでが夢でどこからが現実なのかわからない風景が目の前でたゆたっている。誰かが何か言葉をかけていたような気がするけれど、分からない。時折、人の手が触れる感触を感じて目を開けようとするけれど、すぐに瞼は閉じていってしまう。瞼の裏で沢山の人が現れては消えていった。やがて人を認識できるようになった。検査のために触れた四番隊員は見たことのある人物で彼が目の前にいるのはこれはまた夢の中なのではないかと思ったけれど、自分は生きているのか、と問うたら笑って頷かれた。名前を呼んだけれど声にならなかった。眠ってください、と言われて素直に瞼を閉じるとあっという間に意識は途絶えた。

 

 夢の中にはいつでも十番隊員たちがいた。かつての彼らと、今従えてくれている人たちが混ざり合っていた。目が覚めたとき、随分と都合のいい夢をみるものだと思ったけれど、それが自分なのだとひどく納得していた。そうして、夢と覚醒を繰り返し、はっきりと目が覚めたのは、白い光が窓辺に差し込む朝だった。やけに眩しい光はひどく暖かく部屋を照らしていて、こんな日の光を見るのは随分久しぶりのような気がした。快活な四番隊員たちと言葉を交わし、松本を筆頭に病室には十番隊員が入れ替わり立ちかわり見舞いに訪れた。誰も彼もが普段と変わらずな態度をむけてくることに安堵しながら、その配慮が徹底されていることをどうしても気付いてしまう。きっと松本あたりが何かいい含めているのだろう、と勝手に想像して舌を巻いた。それに甘えて、隊員達の目が安否に気遣うその奥で何かを聞きたがっているのは気付いていたけれど見ないふりを通した。そして、彼らが見舞いにやってきたのは正午をすぎた辺りのことだ。

 

 

 

 

「・・・・・・・・・・。」

 日番谷はベッドの脇に置いてあった椅子に腰掛けてこちらをじっとみてくる男にあからさまに眉根を寄せて怪訝な表情を作り出した。当の本人は全くそれを気にしないのかやたらとにこやかに日番谷を見つめ続けている。言葉もなく。彼が日の光にさらされているのは日番谷には珍しく、むしろ自分よりも彼のほうがよっぽどこの病室には慣れているだろうと思考にかすめたけど、表情には出さないようにした。見つめ続けられる視線にとうとう根負けして、日番谷はため息と共に額に右手を添える。

 

「・・・あー、・・・浮竹。」

 

 恐る恐る目の前の人物の名前を呼ぶと、彼はにっこりとなんだい?と真っ直ぐな視線を向けたまま答えた。その答えに日番谷は盛大に零れ落ちそうになったため息を飲み込む。ようやっと顔を上げ、再び彼を見るとにこにことこちらを見る表情は決して変わらない。それにまた閉口してあーと言葉にならないうめきをこぼす。

 

「・・・怒ってるな?」

 

 搾り出すように言うと、浮竹はにこにことなんのことだい?と見つめ続けてくる。だから、その態度が怒ってんだろ、と胸に沸いてきた言葉は飲み込んだ。

 

「こらこら、怪我人をからかうんじゃないよ、浮竹。」

 

 コンコン、と扉をノックする音と共に京楽が訪れた。緩やかな仕草で浮竹の隣に座り、具合は?とごく自然な態度で日番谷を労わる。その友の言葉にさすがに浮竹は苦笑をこぼし、穏やかな表情に緩めるとサイドテーブルにおいてあった林檎を手にとって器用にむき始めた。

 

「怒っているわけじゃないさ。」

 

 呟くような声と共に浮竹は右手を差し出した。ご丁寧に兎の形に切られた林檎をはい、と手渡されて日番谷は目を丸くする。なんだこれ。呟くと今度は浮竹が目を丸くした。

「なんだって兎林檎だろ。ほらここが頭で、これが耳で・・」

 必死に説明する浮竹に京楽は笑いを噛み殺し、なんでこんな無駄なことすんだ、食えればいいだろ、と林檎を奪って噛り付いた日番谷にとうとう噴出した。浮竹は静かに笑い、改めて日番谷を見る。真っ直ぐな目が優しげに和らいでいた。

 

「生きて戻ってきてくれて、よかった。」

 

 あまりにも、丁寧に紡がれた声には色んな感情が含まれているような気がして日番谷は押し黙る。シャリ、と口の中で音を立てる林檎の甘酸っぱさだけをかみ締めていると、不意に部屋の外で足音が響いていることに気付いた。

「あ、京楽隊長。浮竹隊長。いらしてたんですか。ちょうど良かった。」

 乱菊は、いつもの調子で現れて、病室にいる二人にも驚かなかったようだ。茶菓子を持ってきたのでみんなで食べましょう。今お茶いれますから。と、隣接されている給湯室に勝手に入っていった。お前仕事さぼってきたんじゃねぇだろうな。傷に響かない程度に怒鳴ると、休憩です!休憩!とさも心外だという声が返ってくる。全く、とため息をこぼした所で京楽と目があった。

「調査隊の報告が上がってる。」

「・・・ああ。」

 京楽の声に心持ち姿勢を正して、日番谷は京楽を見た。

「鶴峰山の山頂で虚の霊圧の残滓が確認された。荻堂君もあの時虚の霊圧が掻き消えた感覚が確かにあったというから、死んだと断定してもいいだろう。」

「・・・・・・・・・・・・・・・。」

「納得いかないかい?」

「・・・・俺は手を下してない。」

「本当に?君が与えた傷が致命傷になったということは?追い詰められて自爆するケースも少なくはない。その可能性は?」

 日番谷はかぶりを振る。それ以上の言葉を言わない子供に京楽はやれやれとため息を飲み込んだ。問い詰めるのはやめることにして世間話をするような緩やかさで京楽は話す。今期の催し物の話に始まり、八番隊の定例集会での出来事。現世で珍しい虚が発見されたこと。取り留めのないそれらの話をし、そういえば、と京楽は続ける。

「阿近君が最近忙しくて寝てないと訴えていたなぁ。」

「へぇ。あいつも大変だな。」

 それはきっと、はたから見ればごく自然な返答で、隣にいる浮竹も給湯室で声を聞いているだろう乱菊も違和感を感じない程度に流された言葉だった。そのあまりの自然さに京楽は舌を巻く。

(拒絶)

 相手にそれを悟らせない程度の。疑わせない程度の。彼の中で線引きされた他人との境界線を、京楽だけは気付いた。これ以上介入させない、その線引きは、顔色にもかえず言葉も濁らない彼は本人にも他人にも徹底している。

(この子の、心を開くのは難しい・・。まったく、君は一体どんな手を使ったんだ。)

 今はこんなにも徹底されているこの子が揺らぐだけの、何もかも置いて一人で終わらせてしまおうと駆け出してしまえるほどの激情を与えた存在。子供の中にその存在を残していったかの人。

 胸のうちだけで京楽は友の名を呼んだ。

 

 自分かもしれない。隣に座る浮竹かもしれない。彼の副官である乱菊かもしれない。彼の部下かもしれない。それともまだ知らぬ、まだ出会ったことのない人かもしれない。

 

 それが、例え誰であっても。できうるのならば、この子供が持つ境界線を飛び越えて共に荷を背負える誰かがこの子の前に現れることを京楽は柄にもなく祈った。

 かつてのあの人が自分のその境界線を踏み越えたみたいに。

 

「お茶、入りましたよ。・・・と、ちょっと隊長失礼していいですか、」

 

 湯飲みを置いたとたんに乱菊はそういって、日番谷のベッドに近づいてくる。そのまま日番谷の返事も待たず右手を日番谷の枕の下に押し込んだ。

「おま、ちょ、何やってんだ!お前は!」

 後ろを振り返りながら日番谷は顔色を変えた。平然と枕の下でごそごそと手を動かし続けていた乱菊はやがてひどく満足げに笑う。

「あった。あった。」

 ぐい、と枕の下から乱菊の腕が抜けたとき、その手には白い紙の束が握られていた。日番谷はあっけにとられてうなだれる。

「それは?」

 浮竹が、さも珍しいものが見れたといわんばかりの笑顔で問う。

「隊長ったら、下位の隊員脅して仕事持ってこさせるんですよ。こうやって隠し持って仕事しちゃうもんだからせめて入院してる時くらい休ませて上げてくださいと四番隊員に泣きつかれちゃいまして。」

「それは冬獅郎が悪いな」

「ほんと真面目な上司を持つと大変なんですよ、全く。」

「・・・・・・おい、それは副官の言う台詞か?」

「隊長、他に隠し持ってないでしょうね?枕の下だけですか?」

「シーツをめくるな!」

 そうやって少し騒々しい時間が過ぎ去って、やがて四番隊員が検査に訪れた。それを機に、では、我々はおいとましましょう、と立ち上がった京楽と浮竹と乱菊が扉を出て行こうとした時、その三人の背中に、やけにぶっきらぼうな声が投げかけられる。

「心配、かけた。」

 京楽は振り返らずに、少しだけ立ち止まって微笑むと、扉を抜けて歩き出した。浮竹は一瞬振り返りかけたけれど、同じように京楽の後を追って扉を出ていく。その背中が穏やかな空気をまとうのを見ながら、乱菊は振り返った。視線の先にはいつもの不機嫌そうな表情をした日番谷がいてそのあまりにもいつも通りの表情に乱菊の顔に少しだけ笑みがこぼれる。色づき始めた日の光が淡く病室に指していた。

 

「隊長」

 

 静かに呼びかけると、日番谷は顔を上げた。

「必要なものがあれば持ってきます、何かありますか。もちろん仕事以外で。」

 日番谷は笑った。

 少し困ったように見えたのは、背後から指す光のせいだったかもしれない。少しだけ思案したような素振りを見せ、日番谷は懐かしさに目を細めるように遠くを眺め、そうだな、と呟いた。窓辺からさす光は色づいてからも暖かい。その暖かい光が日番谷の眠るベッドに穏やかに差し込んでいるのが、乱菊にはうれしいような気がした。やがて日番谷はひどく優しい声を紡ぐ。

 手紙が書きたい、と穏やかな表情を作った。

 今ならきっと、返事が書けるだろう、と。

 

 

 そんな彼を包み込むように、黄昏がたゆたっていた。