最後の約束

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 膨大な資料の前に、青年は立っていた。

 腰に結わえてある資料室の鍵が、歩くたびにチャラチャラと音を立てている。淡く茜色に染まる陽光が足元に長い影を落とし始めていた。もう少しで就業時間の終わりを告げる鐘の音が流れるだろう。この資料室に足を踏み入れる者も少なくなった。青年はゆっくりと棚の間を見回りながら閉館の準備に入り始めていた。穏やかで静かな時間がここではいつもゆっくりと流れている。身体に負った傷を回復させるのに、充分すぎる時を与えられ、ここで過ごしてきた。動かなくなった利き腕。今はなくなった指には技術開発局手製の義指がはまっている。見た目を取り繕うためのものだけであって、指としての機能は果たさない。人前で必要があると判断したらはめることにしてある義指は、十番隊舎に足を踏み入れる時だけはいつも外している。四番隊の定期健診も随分と数が減った。一番最初に怪我の治療に当たった際に、この腕はもう以前のようには使えないとはっきり言われていた分、受け入れるのに要した時間は少ない。それでも、戦いから遠ざかった身にもどかしさを感じなかったといったら嘘だ。剣に道を捧げ、死神になる意外にない生を戦場に費やすのが役目だと思っていたこともある。ここに足を踏み入れるかつての同僚。同期。先輩。後輩。それらの人から討伐の話を聞くたびに疼く感情は確かにあったのだ。

 けれど、たった一人で討伐に行くというこれまでにないらしからぬあの人の行動。決して手放しに喜べない怪我を負っての帰還。隊長が目を覚まされましたと朝一番にここに足を踏み入れた十番隊五席の声を聞いたとき、何か言葉では言い表せない感情が走り抜けていった。それはしこりとなって沈殿していた疼きを容易く打ち払う。

 

 歩き出そう。

 

 あの時、青年は何かに後押しされたようにそう思った。

 

 終業の鐘が鳴り、全ての棚の見回りを終えた青年は管理室に置かれている斬魄刀を壊れていない左手で力強く握る。

 

 ひとつ、あの人に捧げられるものを自分はまだ持っている。それを信じて踏み出してみればいい。

 

 

 

 

 

 三席は、目の前で黙秘を通そうとする十番隊員を前に目頭を押さえた。隊長、副隊長が不在の今それを問うのが己の役目であるが、どれだけ言及しようと当の隊員は口を割らない。目の前に佇む十番隊員には誰が見ても分かる殴られた痕跡があって、着衣も乱れている。けれど問題なのはその相手が十一番隊員で、しかも先に手を出したのは目の前にいるこの隊員だと見ていたものから証言があったことだ。

 十番隊員が、乱闘騒ぎを起こすのは珍しい。しかも、目の前にいる隊員は三席もよく知っている。

 決して、暴力で片をつけようなどという性格ではない。隊員を事情を聞くたびに呼び出したが、何も答えない。

 長い沈黙の果てに、とうとう根をあげて、つまらぬ喧嘩を買うな。と、十一番隊の気性を考え思わず独り言を漏らすと、その言葉に気が障ったのか、隊員はぴくりと体を振るわせた。

 

「・・・なんだ。」

「つまらない喧嘩ではありません。俺は、十番隊への侮辱と受け取りました。」

「・・何を言われたんだ。」

 

 殴り合いに発展したという相手。十一番隊の気質を考え、溜息をつく。

 

「隊長に・・・、討伐に連れていってももらえない半端者がと。使えない部下はいらないんだろう。と。飾りの席官はおとなしくしていろ、と。」

 

 三席は言われた言葉に目を丸くして隊員を見た。その隊員の顔が何かを思い出したかのように険しくなっている。思わずそれに心の中だけ、あぁ、と言葉をこぼす。

 

「・・・何発殴った。」

「は?」

 

 三席は体に力を入れるのをやめた。こきこきと肩をならしぐるぐると回してみる。思いのほか軽い口調で出た言葉に隊員は驚いたようだった。もう隊員のほうを見ていない三席は手元に仕事の書類をかき集め、もう一度同じ言葉を吐く。

 

「何発殴ったんだ。」

「・・・・五発ほど。」

「急所に叩き込んだか?」

「・・・はい。打ちのめしました。」

 

「よし。始末書を書いて今日は下がれ。」

 

 戸惑いを見せる隊員を追い出す。その背中に三席は子供に言い聞かせるような声をかけた。

 

「隊長は、今回の討伐に私たちを連れてはいかなかったが、・・・決して、私達を飾りの席官だなどと思っているわけじゃない。それを間違えるな。」

 

 自分に言い聞かせているような声に、三席は少しだけ苦笑した。

 

 

 

 

「結界には自信があったんですが、あれを見たらそんなもの吹き飛んでしまいましたよ。」

 

 回廊にたまたま居合わせた隊員はつい先日共に紅峰から帰還した男だった。歩いている方角が同じなのでなんとなく連れ立って歩く竹添に、男はぽつりとそんな言葉を呟いた。竹添は男の言葉に頷く。全く同じ気持ちを竹添もあの時、抱いていた。きっと今、男は同じ風景を思い出しているのだろう。圧倒的な霊圧に壊れかけた結界。何度も悲鳴を上げそうになった。霊子が降らす雪だけが不釣合いに綺麗で、けれどそれを視界にとどめる余裕もなかった。

「正直、松本副隊長達が日番谷隊長と一緒に討伐に行くと食ってかかってたのをあの時の俺は同じ気持ちで見てましたけど。あれを見たあとじゃ、とても一緒に行くなんていえません。俺、結界張ってるだけで腰ぬけそうでした。結界だってなんど壊れかけたか、正直ここまで使えねぇのかと愕然としましたよ。」

 それから少しの沈黙が訪れて、男はあーあ、とひとり言のように声を漏らす。俯いていた顔をぐい、と上げて、はっきりした声を紡いだ。

 

「強くなりたいとこんなに思ったのは初めてです。そうしたらもっとあの人の役に立てるのに。」

 

 見上げた空に星は瞬きだした。

 

 

 

 

 

 日番谷のために用意した封筒と便箋は生成り色のさらさらとした手触りのものだった。それを届けた帰り道、輝きを増し始めた上弦の月を静かに見上げる。一度四番隊舎を振り返った乱菊は、腰に携えてある斬魄刀にかすかに触れた。

 

 

 

 

 

 

 

 語られる思いはなく、それを知りたいと願うものは、多い。

 それを踏み出す”一歩”は、それぞれの思いの果てに。