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最後の約束 |
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だから、もっともっと貴方に知ってほしい。
仕事を終えて一度私邸に戻ってすぐに執務室に忘れ物をしていたことに気付いた。たいしたものではなかったけれど、なんとなく取りに戻って足を踏み入れた執務室は当たり前だけれど、誰もいない。机上の明かりだけを灯すと小さな光は淡く部屋を照らす。すぐに見つけられた忘れ物をしっかり握り、今は誰もいない執務室、その主がいつもいる場所へ、乱菊は振り返った。広い机には終わらなかった書類が積み上げっていて、退院明けの仕事の量にしては多すぎるその枚数に乱菊は一人苦笑する。 (・・・もう少し頼ってくれてもいいのに。) 日番谷の机に歩を進めると、人のいない執務室には驚くほど足音が響いた。与えられる信頼を、何も感じないわけではない。ひとたびそうと決めたら預けられる背中はあまりにも無防備だ。それは戦の最中でも。日常の中でも。不意に寄せられるものだった。けれど大半の事は彼は一人で背負う。それと決めたら揺るがない。たとえそれが彼が見せる不器用な優しさであっても、そこに与えられる距離をもどかしいと感じるのは乱菊だけではないだろう。
優しさゆえにもどかしい。 つめられぬ距離が。
コツリと足音が鳴って机の手前で立ち止まると、見下ろした机に置かれた硯の横で転がった筆が何本も無造作に散らばっていた。そのすぐ傍に小さな封があった。生成り色のそれは以前日番谷のために乱菊が用意したものだ。日番谷の字で書かれた宛名は丁寧に綴られている。 その名。 乱菊は抑揚のない声で一度、その手紙の宛名を口の中だけで呟いた。
踵を返して歩き出す。 この手紙を書いていたときの日番谷を思い出した。
帰り道、物音が聞こえた気がしたのは本当に気のせいだったかもしれない。けれど、何かに引かれるようにふわりと揺れた乱菊の視線は回廊から見える十番隊の修練場で止まった。夜も深まりつつある藍色の風景の中にそれは確かに目を引く白さで、修練場の扉から漏れる光が見える。 (誰かいるの?) 終業後の修練場の使用許可の申請は今日はなかったはずだ。誰か灯りを消し忘れたのかもしれない。引っ張られるように修練場に道筋を変えた乱菊の耳にやがて、音が聞こえた。 (・・・・誰か、いる) 感じる人の気配。聞き覚えのある竹刀の音。カンと弾かれるようなその音は不規則に続く。僅かな隙間が開かれた扉の間から乱菊は中の様子を伺うようにそっと視線を走らせた。 「あっ、」 思わず漏れた声。 修練場の中にいた人が弾かれたように振り向いた。
「松本副隊長!?」 「乱菊さん!?」
二人重なった声は男のものだった。二人の男は互いに竹刀を持ち、打ち合っていた寸前の体制のまま顔だけで振り返って、扉の隙間から覗いていた乱菊の霊圧を読み取ったようだった。隙間から覗く乱菊を確かめるように見る。ばっちりと目があった状態で、乱菊も負けず劣らず驚いた表情を向け、観念したように修練場へ足を踏み入れた。
「あんた達、何やってるの。」
真っ直ぐに二人の元に歩み寄りながら、声は驚きを隠せなかった。明るい光の灯る修練場の中で息の上がった二人の男は互いにバツが悪そうに肩をすくめた。乱菊が驚くのも無理はない。目の前にいるのは乱菊もよく知る二人だ。一人は十番隊三席。ついさっき十番隊舎で別れたばかりの男。そして、もう一人は。
「・・・修練です。」 「修練、ってあんた、」
三席の隣で、その男は姿勢を正すように動いた。乱菊の視線を真っ直ぐに体の正面から受け止めながら平然と言ってのけた男の声に、隣にいた三席の言葉が弁明のように重ねられる。
「彼は、・・・・日番谷隊長の元で、もう一度戦いたいと。」 「え?」
三席の言葉に思わず視線を走らせた乱菊の目に叱られた子供のように困った顔で笑う資料室の管理人である青年がいた。乱菊は驚きのあまり言葉を見送る。ぶしつけに青年の腕に視線を走らせてしまった。その乱菊の視線に気がついたのか青年が穏やかに笑う。
一度は越えてみたいと願っていた存在。 今望むのは、ただあの人の元にありたいと願う。
そのために再び剣をとる。
「ええ。稽古を、と。三席にお願いしたのは、僕です。ここのところは就業時間を終えてからは毎日。」 「毎日?」 驚きすぎて、二人の言葉を反芻するしかできない乱菊をよそに、ひとつ息をはいて青年はカランと竹刀を放った。上がった息を整えるように一度短く息をはき、座り込む。その顔が何かを思うように天井を見上げた。つられるように三席も腰を下ろし、腕から放った竹刀がカラン、と音を立てて壁の方に転がっていく。乱菊は同じように二人の前に座りながらかける言葉を選んでいた。結局一番初めに出てきた思いを口にする。 「どうして。」 二人を見ながらいうと、三席と青年は顔を見合わせて笑う。先に口を割ったのは三席のほうだった。 「松本副隊長、無意味なことだとお思いですか?私は彼の想いに共感します。できるならもう一度、隊長の役に立ちたいと言われたときにはひどく納得しました。諌めることはできません。私もきっと同じ選択をしたでしょう。」 乱菊ははじかれたように青年を振り返った。四番隊卯ノ花隊長に、再び戦場へ返り咲くことはないでしょう、とまで言われた深い怪我を負った青年だ。 あの戦いには乱菊も携わっている。どれほど深手を追ったのか、乱菊は言葉ではなく自分の目で確かに見ているのだ。 また戦いたい、と気安く言えるほど軽いものではなかったはずだ。 その想いが表情に表れたのか青年は少し叱られた子供のように微笑んだ。バツが悪くなったのか、青年の言葉が矛先を変えようと三席の言葉を遮るように続けられた。 「・・・乱菊さん、知ってますか。僕は確かに三席に仕事が終わってからの一刻でいいから、相手をしてほしいと頼みましたけれど。三席はそれよりも以前から一人でここで鍛錬していたんですよ。」 振り向いた乱菊の表情に今度は三席が肩をすくめる。一体なんなのだ。この二人は。一体何を。
そう戸惑っているような乱菊を三席はまるで遠い世界を見るかのように見た。その目が優しく細められている。三席は躊躇いがちに言葉を紡ぐ。 「強くあれば、あの人と共に戦いに行くと強く進言できたのではないか、とそんな風に感じるんです。隊長がお一人で討伐に向かわれたときに、どこかで私は諦めてもいた。あれほど強く拒否をされるからには、件の討伐は絶対に私では敵わないのだろう、と。けれど、そんなのは私の問題です。私はやはりあの時、隊長と何としても共に戦いにいくと言うべきだったと、隊長が生きて戻られてからもずっと後悔していました。どんなに苦境な戦でも、共に行くといえるものがほしい。それに必要なものが私にとって強さなら、私は強くなろうと思います。あの人と同じ場所に立てるように、と思うのです。お一人で全てを終わらせてしまわれることがないように。・・・隊長が、お一人で討伐に向かわれると決めたときに、それを私は決めました。」 乱菊は討伐前に日番谷を見送る三席が苦しげに言った言葉を思い出していた。あの時からずっと三席は後悔していたのだろう。それをおくびにも出さずに、ただ強くあれ、と一人で鍛錬していたのだろうか。 「僕が一人で道場に来たとき、ここで三席に会いました。どうせだったら、僕の相手をしてくれないか、とそこで頼んだのです。それ以来二人で仕事終わりに鍛錬を。・・・僕は、隊長の役に立てるものを持ちたかったのですよ。隊長に与えられた穏やかな時間の中で僕はずっと考えていました。どうすればあの人の優しさに、報いることができるかと。恩返しをしたいのです。」 「正直こいつにそれを頼まれたときは断ろうかと思いました。怪我の後遺症のこともありますし、刀を握れるのかと侮っていました。・・・まぁ、こいつの腕のことは十番隊では周知の事実ですから。」 そうだ、だから修練と聞いて乱菊も驚いた。そんなことができるのか、と。それに答えるかのように三席の声が少しいたずらっ子のようにどこかうれしそうに弾んだ。 「松本副隊長。私は自分の官位をこいつに返上したくなりました。才能があるものというのは時に恐ろしいものです。不可能を可能にしてしまうのですから。」 かつて三席を名乗っていたのは隣で穏やかな表情でいる青年だった。乱菊は三席の言葉でまたそれを思い出し、そういえば、二人は同じ年に学院を卒業した同期だったのだと、過ぎた記憶を手繰り寄せる。青年の降格と同時に上がった官位に三席は喜びよりも戸惑いと憤りを隠さなかった。彼もまた不器用な優しさをもつものだった。与えられる言葉をかみしめるように落ちた沈黙の後、青年は静かな声を紡ぐ。 「乱菊さん、僕は今はまだ戦場にゆくのは無理でしょう。また先日と同じようなことになれば、隊長がお一人で討伐に向かわれるのをなす術もなく見送るだけになるかもしれません。歯がゆい想いですが、それが僕の現状です。けれど、ここ数日の立会いで確かめました。・・・前よりも握力のなくなった左手はけれどまだこうして刀を握る力を残しています。戦闘としての形をとるには時間はかかりますが、時間はかかってもいい。」 青年は顔を上げた。一切の迷いのない姿だった。強くそれを告げた。 「僕はまだ戦える。」 それが、たとえ 「乱菊さん、僕はまだ戦えます。」 一粒の可能性であっても。 かなわぬ夢であっても。 前へ、進むべきだ。 それが、 「それが、僕ができる隊長へのご恩返しです。隊長の元で戦う事を僕は願います。あの人の役に立つ事を。ですから、いつか。・・・いつか僕が再び戦えるようになったその時は、」
その先に紡がれた声はまるで祈りのように静謐な気配をまとった。
(あぁ、隊長。) 乱菊は息を飲む。 日番谷の、優しさゆえに開かれる距離を、ただ必死に追う人達がここにいる。与えられるものに甘んじない強さがここにある。 その姿を。焼き付けようとするかのように目を見開く。 (貴方は知っているのだろうか。) 向けられる思いの暖かさ。その思いの強さ。 どれほどの人から必要とされ、望まれ、貴方がそこに立っているのかを。 貴方は知っているのだろうか。
(隊長、) 貴方は、もっと。
「決めた!」 乱菊は立ち上がった。その急な仕草に二人の男は驚きの表情で乱菊を見上げている。その二人を同時に見下ろしながら、乱菊はにっこりと微笑み返す。
(日番谷隊長) 貴方は知ってもいい。 いや、もっともっと貴方は知るべきだ。 自分が思うよりも強く深く。 誰かに大切にされていることを。 貴方を必要として、 貴方に必要とされたいと願う者の存在を。
それはきっと 未来に続く道となる。 そこに踏み出す勇気となる。 それを照らす、光となる。
越えられぬものなどきっとない。
誰もが、 もう歩き出しているのだ。
「私、決闘を申し込むわ。」
不思議と心は軽かった。乱菊は怪訝な表情を浮かべた二人を見下ろし、再びにっこりと微笑んだ。
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