最後の約束

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 ”修練場で十番隊副隊長が叛旗を翻している。”

 

 そんな不穏な噂がひっそりと耳に入ったのは既に日も沈みかけ、終業時間を過ぎて、隊舎からの帰り道だった。雛森は耳をなでていった声に、思わず振り返る。

 

「えぇえええ、乱菊さんが?」

 

 思わず漏れた声に答えてくれるものはそこには誰もいなかった。しばし足を止め考え込む。逡巡しながらも踏み出した足が向かった先は修練場だ。

 

 

 

 

 日番谷が討伐から帰還を遂げて、入院中に一度雛森は幼馴染を見舞った。何食わぬ顔でいつも通りの挨拶をする幼馴染に安堵と共にどこか怒りのような感情が沸いたのを思い出す。本当は叱り飛ばしてやりたいのに、何でそんなことしたの、とたったそれだけの言葉が言えないためだけに雛森は結局口を噤む。

 いつしか日番谷が語る言葉が自分に隠されるようになったのはいつからだっただろう。死神になったばかりの頃大きな戦に携わったと聞いたときからだろうか。それよりも学院の卒業間際だろうか。そう、あの時も少し様子が変だった。それでも、日番谷本人からそのことを聞かされたことはない。つまりはもっと前だ。

(シロちゃん、まだ怒ってるかな。)

 死神になると決めたとき、彼にひどく反対された。何故お前がと、何度も言われた。それでも、言葉なんか全部無視して、死神になった。きっと、あの時から気持ちを語るのを諦めてしまったんじゃないかと雛森はおぼろげながら思っている。

(でも、私あの時の気持ちに嘘はないんだよ。シロちゃん。)

 物思いにふけりながら道場に近づくと、四の数字が刻み込まれた建物に異様な熱気を孕んだ霊圧が揺らめいているのに、雛森は気付いた。

 まだ、声は遠い。

 けれど小さな叫びのような音が道場から聞き取れる。

(さっきの話本当だったの?・・きっとここだ。)

 一歩近づくと、自然と手が震えていた。柔らかいようなそれでいて、凍てつく冷たさがさっと髪をさらう。流れる風を追うように雛森の視線は前から後ろへすっと動いた。

(シロちゃんの霊圧だ。)

 彼の霊圧は時折色を帯びる。雪白から月白の白さの間をさ迷い、銀が散り、時折翡翠を帯びる。透明で濁りのない氷雪の色。きれいだと思う。

その色にまるで導かれているかのように雛森は道場へ足を踏み入れた。

(あ、)

 一瞬目の前を覆った道場の光。

 瞬かせた目に日番谷の戦う姿が映る。

 押し寄せてきた霊圧が全身をさっとなでて外へ逃げていく。

 隊員と打ち合っている日番谷から溢れる霊気が道場内に充満して雛森はむせ返るような、異様な熱気を孕んだ道場内に一歩後ずさった。壁際に力なく横たわっている隊員が何人もいる。皆一様に戦いを終えて、力尽きているような風体だった。その横で次の出番を待っているのか背筋を伸ばして正座をしている隊員。試合を見守っている乱菊。治癒を施している荻堂ともう一人の四番隊員。ただ、沈黙を通して試合を見入っているその中で日番谷と打ち合っている隊員だけが、何かを言っている。

 雛森の怯んだ目が何かを訴えかけるように乱菊に追いすがった。すぐに目があう。少し困ったように肩をすくませた乱菊の元へ雛森はにじり寄った。

「乱菊さん・・・!」

(これは一体どういうことですか)

 そう続けられたはずの言葉は何か大きなドンという鈍い音が響いて、雛森の喉に押し込まれた。振り返った雛森に日番谷に打ち込まれたらしい隊員が地に這い蹲っている姿が見える。けれど、彼は竹刀を杖にして立ち上がった。再び日番谷を前で竹刀を構えている。本気だ。彼は本気で日番谷に向かっている。力と思いの限りに今ここで隊首と戦っている。それが伝わってくる。

 日番谷の表情は雛森の位置から見えない。

「乱菊さん、これって!」

 隊長自ら一対一の稽古をつける場合もある。けれど明らかにそういう雰囲気ではないこの場の空気に雛森は困惑した。

「・・隊長がね、ここまで本気で私たちの相手をしてくれるなんて思ってなかったわ。」

「え?」

 頭上から降ってくる乱菊の声は少し言い訳をするような響きがこもっていた。

「それを望んでこの形をとったけど、こんな風に全部を受け止めようとしてくれるなんて予想外だった。」

「乱菊さん?」

「向き合ってくれてるのね、隊長なりに。」

 冷静に見渡してみれば、道場内に結界が張られているのが分かる。だから日番谷と打ち合っている隊員が何か叫んでいるような声は膜が張ったかのように聞こえない。けれど、それを突き破るように時折聞こえる言葉が不意に雛森の耳をさらう。

(怒ってる)

 その声は、怒気を孕んではいないのに、言葉の意味だけが日番谷を責めてる。何で一緒に連れていってくれないのか、とそう言ってる。俺では役に立てないのですか。その言葉を全部日番谷は無言で聞いてる。よく見ていれば、日番谷はわざと時間をかせいでいるようにも見える。隊員の激情が去るのを待つみたいに。そして雛森の目に体勢を立て直した日番谷の顔がしっかりと目に映る。その瞬間、沢山の疑問も全部なぎ払われて、すとんの心に落ちていくものがあった。

(あぁ、シロちゃん。)

 

―向き合ってくれてるのね、隊長なりに。

 

 本当だ。

 全部受け止めようとしてる。

 思いも言葉も全部。そういう表情をしてる。

 

 隣で乱菊がすっと右手を上げる気配がした。道場の真ん中を見ると試合は決着がついたようだった。高らかに日番谷の勝利宣言が響くと共に、打ち負かされた隊員はその場から去って代わりに正座をしていた隊員の一人が立ち上がって、開始線まで歩み寄った。礼をする。

 

「開始!」

 

 

 

 

 日番谷は少し弾んだ息を抑えるように短く息を吐き出した。視界の端に雛森の姿が見えていたが、視線を向けるのはやめる。どこかで何かを聞きつけてきたに違いない。状況説明しているほど余裕はなかった。ただ目の前の隊員を打ち据えていく。開始の声を告げられても日番谷が姿勢をとらないからか目の前にたった隊員は打ち込んでこなかった。目を合わせると、隊員が笑う。少し困ったように笑う。今まで剣を交えた隊員がよくこの表情をしていたことを日番谷は思い出す。声もなく姿勢をとると隊員はようやく竹刀を構える。動きよりも先に隊員から言葉が漏れた。

 

「隊長、報告書は読んでもらえましたか。」

 

 日番谷は隊員の声に頷いた。つい先日、この隊員に提出された報告書を思い返す。この隊員が出したものは紅峰で保護した少女に関してのものだ。少女の身元引受人を引き受けてくれた人の元へ、少女を送り届けてほしい、とこの隊員に頼んだのだ。つい先日、この隊員は依頼を果たして瀞霊廷に帰還した。それに関しての報告書。

 隊員が動く。

 様子を見る日番谷に躊躇わずに打ち込んでくる。日番谷は体をひねるだけでかわし、下から竹刀を振り上げる。寸前で刃を受け止め、隊員は後方へ少しさがると胸の辺りから竹刀を突き出した。それを打ち払う。体勢を整えた隊員は日番谷と間合いをとった。何かを躊躇うように隊員は言葉をつぐんでいた。けれど、日番谷を見据える。そして迷いの先、ようやく言葉を紡いだ。

 

「あの子を送り届けた時、少女の身元を引き受けてくれた方と話をしました。」

 

 きっと、隊長にはこれだけで、伝わるだろう、と何処か核心めいた気持ちで隊員は告げた。

 再び打ち込んだ隊員はその時、既に負けを覚悟していたのか。強い衝撃と共に抜け落ちていく竹刀を見ようともせずただ日番谷見ていた。日番谷の目が少しの戸惑いを内在して見開かれる。 

 

 そのまま振り返った日番谷は隊員に背を向ける。乱菊の試合終了の声が聞こえ、無言のまま立っていた日番谷に、今打ち払われたばかりの竹刀を拾い上げた隊員は、その背に言葉を重ねた。

 

 

「・・・あの方、」

「・・・・・・。」

「日番谷隊長の話をされてましたよ。懐かしそうに。」

 

 

 

「そうか。」

 

 

 隊員は振り返らない日番谷の背中を見た。ただひとこと添えられたその言葉に一瞬、日番谷の肩が震えた。それだけでもう充分気持ちは伝えられただろうと核心して隊員は礼をして去った。

 

 

 

 

 見ていればわかる。

 どれだけ近くにいたとしても歩幅を合わせてくれているだけで、本当はもっとずっと高みにのぼる子だ。

 否応なく人を惹きつけ、何かを統べるためにいるような子だった。昔からそうだった。

「かなわないなぁ」

 再び始まった試合に、まるで縫い付けられたかのように動かない体はしっかりと日番谷をむいていた。雛森は思わず漏れた声に俯く。

(シロちゃん、ずるいよ)

 

 だから、私は守れる人になりたかった。

 その場所にいる人は、とても寂しそうに見えたから。

 

 

 

 何故かは知らない。

 胸を打つ。

 

 

 日番谷に投げられる言葉は、どれも届けられることのなかった思いだ。胸の奥、沈んでいったそれらの思いが今水面に現れ、言葉という形を与えられている。

 憂いと寂しさで懇願する祈りみたいに紡がれる声はみんな何処かでついこの間日番谷が一人で討伐に言ってしまった紅峰戦に繋がっているのだと気付く。その言葉の一つ一つに本当は日番谷の安否を気遣っている労わりのようなものがあって、だからこそ冷たい言葉なのにどこか温かさが伴う。

 

(シロちゃん)

 望みもしない力に魅入られて、否応なく人を惹き寄せて、諸刃の刃みたいに自分も人も傷ついて、誰も同じ場所に立つことはできないその場所は、寂しい?

 ずっと寂しかった?

 

 でもね、見ていると分かるよ。

 ここにいる人達みんなそれを分かち合おうとしてるって。

 

 

 シロちゃん、なんでかな。

 私、今泣きたいよ。

 

 

 みんなシロちゃんのことこんなに慕ってる。

 それが分かるよ。

 

 

 私なんかより、ずっとシロちゃんの近くにいる。

 それがなんだか寂しい。

 

 

 この人たちなら、シロちゃんは思いを預けられるのかな?

 私にずっと預けてくれなかった気持ち。

 この人たちなら、受け止められるのかな。

 

 だって、みんな。

 シロちゃんと同じ場所に立とうとしてる。

 

 

 

 

 

 

 

 それはどれほどの思いの強さだろう。

 

 

 

 

 雛森の耳に再び乱菊の試合終了の声が届いた。見上げた視線に流魂街で共に育った幼馴染の姿が見える。いつのまにか開かれてしまった距離を繋ぎ合わせる術を雛森はもう知らない。あの頃のように寄り添ってくれるけれどもうあの頃とは違う。それが進むことだけれど別たれた道をいつまでも寂しく思っている。

 けれど目の前にいる十番隊の人達はこれから道を共にしていく人たちだ。

 その人たちに囲まれて、日番谷は少し、微笑んだようだった。

 

 次なる挑戦者が進み出る前に治癒を受けている日番谷を見ながら雛森も微笑む。綻んだ幼馴染の顔が寂しくも、嬉しかった。

(あぁ、シロちゃん。もう寂しくないんだね。)

 

 

 日番谷の元に最後の挑戦者が進み出たとき、雛森はそっと修練場を後にした。