最後の約束

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「これで、全員終わりだな。」

 

 試合の終了が告げられ、零れた言葉とやれやれと倒れこんだ三席に日番谷が手を貸していると、不意に今までとは違うざわめきが道場に訪れていることに気付いた。

 刹那、戸惑うように揺れた目を、逃せなかったというかのように三席がこちらを見ている。

 隊長、

 と目の前で起き上がった三席が呟き、その顔が綻んだ。伸ばされた手をとった三席の手は力強い。その手が熱をもったまま握手をするようにしばし繋がれた。

 

「隊長、実はもう一人、貴方と戦いたいという人がいます。」

 

 その声と共にはなれていく腕を追うように伏せられていた視線が上げられた。

 

「ぜひ、彼と手合わせを。私からもお願いします。」

 

 不意に試合中には気付かなかった気配と霊圧を背中で感じる。肌をさらった空気を響かすこの暖かさを日番谷は知っている。

 すぐに脳裏によぎる存在に日番谷はまさか、と心のうちで呟きながらもどこか確信めいて振り返える。

 

 資料室の青年が、その場所にいた。

 

 霊圧は、大気を揺らす、風に属する。

 かつてこの霊圧は常にこの身の傍らにあった。 

 

 空気を揺らし、響かせる風。

 何度も共に立った死地で不思議とこの霊圧は、暖かくこの身に寄り添った。あの頃と同じ暖かな霊圧をまとって、青年は歩いてくる。

 日番谷同様に、青年の存在に今気づいたらしい隊員たちが、喜びと困惑で駆け寄る。その中を分け入って、迷いなく日番谷の元に青年は歩を進めた。

 こんな光景を、知っているような気がした。ただ静かに見据えてくる目。迷いなく歩く姿。

 

 前線で、

 青年はいつもこんな風だった。

 

 

「日番谷隊長、三席。良い試合でした。」

 その青年が日番谷の元に辿り着き歩を止めると、こぼした言葉と共に顔をほころばせた。青年の暖かさを孕んだ霊圧をよりいっそう肌で感じる。視線が合った。道場を見渡せば青年の存在に驚いているのは隊員たちばかりで副隊長である乱菊と隣に佇んでいる三席はただ穏やかに微笑んでいる。

 不意に、何故乱菊が一番手を名乗り出たのか、日番谷は納得した。

 ここに立つ男に最後を譲るためだ。

 

 いつの間に、剣を握れるようになったのか、何故それを今再び決意したのか、それがなんのためであるのか、今ここにいる理由、次々に浮かぶ疑問も心にわく感情に全て打ち払われる。その心地いい感情に日番谷はしばしたゆたった。

 

「隊長、斬魄刀を。」

「・・・あぁ。」

「僕の剣を貴方に受けてもらいたいのです。」

「あぁ。」

 

「手合わせをお願いできますか。」

 

 ひとつ、息を飲んだ。

 

 

「あぁ。」

 

 それは、歓喜。

 

 この瞬間を心に描いた日がある。それは自分の勝手な思いで適わぬ夢だと想いながらも心に抱き続けた思い。かつて死地で戦えぬ体になって、死神を辞した青年を日番谷は強く引きとめた。それは、浅ましい思いのためと、自嘲したことすらある。その思いすら知らず青年は己が与えた言葉一つで、死神であり続けた。戦う術を持たぬ死神は無様なだけだ、と他隊の死神に侮辱されようと、青年は日番谷と交わした約束を守り続けた。

 迷い続けた日々。日番谷の思いをまるで振り払うように、ふ、と息を吐き出すように目の前の青年が笑った。

 

「隊長、手加減は不要ですよ?僕は、乱菊さんと三席に、貴方を打ちのめしてくれ、とお願いされていますから。」

 

 日番谷の隣で三席が笑う気配がした。

 驚いて見開いた目の端に、副隊長の乱菊が同じように笑いを噛み殺している。日番谷は顔を伏せた。

 

 

(あぁ、ちくしょう。お前たち、やってくれるじゃねぇか。)

 

 

 

零れ出る笑顔を、止められない。

 

 

 

 

 青年の決起に喜んだのは日番谷だけではなかった。それはかつての、仲間。青年と共に戦場を駆ったことのある隊員達にもそれは広がっていた。青年が竹刀ではなく斬魄刀での試合を望んだのもそれに拍車をかけた。

 改めて張りなおされている結界を横目に日番谷は荻堂に治癒を施されていた。何か視線を感じて青年に注がれていた日番谷の視線が揺れる。目の前で治癒を施しながらじっと日番谷を見ていた荻堂の目とかち合った。

 その瞬間、荻堂の目が綻んだ。

 その空気の穏やかさに日番谷は刹那言葉を飲み込む。

 

 

 体に注がれる霊力が熱を帯びる。

 治癒は体の組織を零子が補うためからか四番隊の死神が持つ霊力は戦闘で使うそれよりもずっと重厚で繊細だった。体に血がめぐるように注がれる荻堂の霊力にしばし意識を傾けてる。呼び覚まされた記憶に、思いを馳せた。そんな日番谷に気付いたかのように頭上から荻堂の声が日番谷の意識を掬った。

 

「日番谷隊長。」

 

 荻堂の口からその名を呼ばれ、不思議な感覚が胸にわく。再び荻堂の声が優しくかつての十番隊長の名を呼んだので日番谷は少しだけ怯んだ。荻堂の口からあの人の名を聞くのは初めてだった。当たり前だ、あの戦を共に生き延びてからも言葉を交わしたことはなかったのだから。互いに避けるように黙したその気持ちをどこかで理解している。それを安堵で受け入れた自分もいる。言葉にしてしまえば。名を呼んでしまえば。今だ飼いならされることのない感情が溢れてしまう。記憶を語るとき、望まずとも意識はその時間を再び生きる。同じ場所。同じ時間。それを共にしていた人とそれを確かめ合うほど現実を増すそれに強くはいられなかった。ただ、日番谷に届けられる荻堂の声だけが落ち着いていた。日番谷に向けられていた荻堂の目はどこかで労わるような優しさをにじませている。ひとつ、息を吐き、荻堂は日番谷にだけ届く言葉を紡ぐ。

 

「今から僕は、貴方にとって余計な事をいうかもしれません。けれど、それはとても大切なことだと思っています。貴方にとっても、・・・・僕自身にとっても。聞いていただけますか。」

 

 躊躇うように、けれどしっかりと頷いた日番谷を見て荻堂は微笑んだ。紡がれる言葉にもう迷いはなかった。

 

「誰かがもし貴方に過去や思いを語らせたいと願うならばそれはきっと敬慕の先にある貴方への労りであるのだと思う。この試合をはたで見ていてそれを僕は感じています。その全てに答えろ、と言いたいわけではありません。それを口にするのは容易くはないでしょう?思いが深ければよりいっそう難しく思うでしょう。僕も貴方と同じなのです。僕はかつての戦から生き延びて、沢山の方にそれを望まれました。今の貴方のように。思いを語ることでこの心を軽くしようとしてくれていたのだと今なら分かります。向けられる優しさに手を伸ばせばよかったのかもしれません。けれど、僕はそれができませんでした。・・・言葉にすれば全てが本当に失われていくような気がして。」

 

 日番谷ははっと、顔を上げた。あまりにも鮮明に、胸奥で響く感情が溢れ出てくる。同じものを抱いているというにはあまりにも、幼い。

 治癒者の性。

 荻堂が日番谷よりも余程多くの十番隊の死期に立っていたことをその言葉で今更ながら知ったような気がした。

 日番谷の目が険しく細められたのを見て、荻堂は日番谷のその思いを汲み取ったかのように一言、大丈夫ですよ、と告げた後で、言葉を続けた。

「貴方に告げたかったのは、僕自身のことでもあります。貴方もずっと思いを黙していたでしょう。貴方の性格からして、僕のそれよりもずっと頑なだったのではないでしょうか。けれど、思うのです。僕らに幸福を願ったあの人がそんな僕らを望むか、と。」

 鮮やかに蘇る存在に日番谷は目をふせた。

 荻堂が言いたい言葉をもう知っている。けれど、それを遮る気にはならずただ続く荻堂の言葉を待った。

「全ての人にそれを許せと言っているのではありません。たった一人でいい。立場も超えて貴方の目線で思いを知る事を望む人にそれを許してほしいと僕は貴方に願います。貴方の思いも過去も全てを知る人がたった一人でもいてくれたら、

・・・痛みは強さに変わりはしないでしょうか。」

 

 

―できる。君がそれを自分に許すだけでいい

 

 

「あんたにも、ちゃんといるのか。それを許せる人は。」

 

 思わず呟くと、荻堂は日番谷の言葉に驚いたように目を開き、すぐに顔をほころばせた。

 

 

―痛みを誰かと共有するだけでもいい

 

 

「ええ。僕にはあの人の友人であった卯ノ花隊長が。だから貴方も知ってください。貴方にそれを願う人はいます。」

 

 

―自分が独りじゃないことを知るだけでいい

 

 

 蘇る言葉に刹那、目じりに熱が走った。

 荻堂のさ迷わせた視線の先にいた人物に気付いて日番谷は熱を冷ますかのように息を吐く。見渡せば道場内に試合を挑まなかった十番隊隊員たちも集りつつあった。

 その真ん中に試合の準備が整った様子で日番谷の治癒が終わるのを待っている青年の姿がある。

 その青年を見ていると、治癒のために荻堂にとられていた腕に不意に力がこもった。視線を荻堂に戻すと、その顔はどこか意思を宿して凛としている。

 

 

 

「日番谷隊長。

 ・・・・貴方は、いい部下を持ちました。」

 

 

 日番谷は息を飲んだ。胸が詰まった。荻堂の顔が再び笑顔に移り変わるのを見ながら、日番谷は緩く瞼を伏せる。きっと今自分は荻堂と同じように笑っている。

 ただ、一言。

 

 ああ、

 

 と告げた。

 それ以上の言葉は続かなかった。

 

「さぁ、今度こそ。最後の試合ですよ。」

 背中を押されるように日番谷は立ち上がる。十番隊員達の視線が注がれる中を斬魄刀を手にしてゆっくりと、ゆっくりと、歩き出した。