最後の約束

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 十番隊長の瞼は緩やかに伏せられたまま喧騒に耳を欹てるように息づかいさえ聞こえぬ静けさで、斬魄刀を握り締めていた。その顔は怒気に打ち震えても怖気に苛まれてもいない。ただ無表情に、ともすればうっすら微笑みを携えた仏のように何の感情も滲ませぬ顔で立つ尽くすだけだ。

 

「なりふりかまわずって感じね。」

 

 十番隊長の横で、女の声が聞こえる。男が物心をついたときから聞いていた女の声はあの頃よりも幾分艶を帯びて、やはり何の感情も含ませない声音で呟いた。

 

「まさか、夜襲に出るとは。あいつら本気でここ潰そうとしてますよ。隊長。」

 

 斜め左で軽口を叩くように言った若い男の言葉は何処かじれったそうにしていた。その横で老人の声がやはり落ち着いた響きをもって呟いた。

 

「ただ”ヤツ”がおらんな。この戦いに乗じて、お前の首をとろうと、するかと思うたが、……どうする?」

 

 老人の問いかけに答えるように、隊長と呼ばれた男は伏せていた瞼を開けた。まるでそのときだけゆっくりと時が満ちていったかのようにやけにゆっくりとした仕草で十番隊長は抜き身の斬魄刀を目の前にかざすと月の光を照らして輝く斬魄刀を撫でた。

 

「もう終わりにしよう、こんなのは。」

 

 十番隊隊長に答えるように、無言で戦いの先を見詰めていた三人は頷き、ためらわずに抜刀した。

 

 

 

 

 日番谷は見下ろした風景を息を飲んで見つめた。突然の襲撃に驚いているのでも、その虚に応戦している十番隊員たちの姿に意識を奪われているのでも、今はない。

 

 斬魄刀だ。

 日番谷の目を奪ってやまないもの。駐屯地の中心で、今まさに解放されようとしている四つの斬魄刀に目を奪われているのだ。解放されていく霊圧が不思議な光を伴って広がっていく。勘のいいものは気付き、身を退く虚の姿さえ見えた。やがて、喧騒を破って響いた声は上空で佇む日番谷の耳にも届いた。

 

「 虚ろえ 陽麗 」

 

「 雲隠れて囀れ 紅燕 」

 

「 花も花なれ 俄羅奢 」

 

 大きな三つの力が解放されるのと同時に強い風が沸き起こった。その中心で最後に斬魄刀を振りかざした十番隊長の姿を見つけたとき、確かに隊長の目が、日番谷を見あげた気がした。

 

 

「 永え(とこしえ)の風に詠え 鳳凰 」

 

 

 息をするのも忘れてしまうような光景に、日番谷は瞬きすらもできずに食い入るように眼下の風景を見た。果てのない力の完ぺきに研ぎ澄まされた霊子。呼び覚まされていく斬魄刀の力は見るものに幻影を抱かせるような美しさでそこにある。まるで吸い寄せられていくように打ち込んでいく虚の姿が、跡形もなく粉砕していく。音もなく。

ずっと見ていたい。瞬きすらもしたくない。戦うあの人の姿は簡単に心を引き寄せ、捉えた。

 やがて、それは瞬く間であっただろう時間が経過した後、日番谷は何かに呼び覚まされたようにはっと、なった。顔だけで振り返る。何か異物のように感じたざらりとした違和感が肌をなで、その気配を追って日番谷はついさっきまで門番をしていた門の付近に目を凝らした。そこには、さっきまでともに門番として立っていた男の姿がある。大半の虚を討ち果たしたであろうそぶりで門に背を向けたその男の姿が、不意に暗闇に引きずり込まれるように、

 

 

――消えた。

 

 

 

 日番谷は駆けた。何も考えることはできなかった、男が消えた場所に向かった。

 日番谷の霊圧の動きに気付き、また向かった先にある不穏な気配を知って、虎と呼ばれた男の声が空に向かって悲痛に叫んだ言葉は瞬歩で暗闇に消えた日番谷には届くことはなかった。

 

「やめろ!クソがき!一人で向かうな!!」

 

 闇の中にある更なる闇の中に迷い込んだような錯覚を抱いた。日番谷が一瞬で詰めた間合いの先に琥珀色に光る二つの眼が凍てつくような冷たさでまるで暗闇のなかに浮いているかのように光っていた。しゅーしゅーと息が漏れるような音が聞こえ、それは鼻につくような臭気を帯びている。闇の中の更なる闇の中でそこにいるものは確かに日番谷を、見ていた。息を吸う音すらうるさいと感じる異様な静けさ。日番谷が確かめるように氷輪丸の柄を握りなおすと、カチャリと震えた柄の音は何処までも響いていくような大きさで余韻を残して耳にざらつく。そうして、どれくらいの時を睨み合ったのか分からない時の果てで、日番谷の先にある眼光は確かに怪しく光り、身じろぐように動くと低く野太い声で、

 

 

『アハム シャルベーシャ アスミ』

 

と、今は使われていないはずの古(いにしえ)の言葉でそう告げたのだった。

 

―アハム シャルベーシャ アスミ

(我が名はシャルベーシャ。)

 

 その瞬間、闇の闇の中で鋭く光るものが視界の端をかすめると同時に耳鳴りのように震えた空気がやがて天を劈く咆哮へと変わる。一声嘶いた声は風をなぎ払い、葉音を響かせ、地を震わせる。圧される見えない力に舌打ちをこぼし日番谷は一歩飛びのいて斬魄刀を構えた。今ようやく匂いをかぎつけたかのように生ぬるい血の匂いが日番谷の先から立ち上っている。日番谷は堪えられずに、叫んだ。

 

「離せ!!!」

 

 日番谷の凝らした目に映るのは闇に溶け込む獣の足元で人の形をしている項垂れた”何か”だった。構えられた斬魄刀は日番谷の心の奥底で今にも巣くってしまいそうないい知れぬ不安に震えている。それをなぎ払うように日番谷は琥珀色に光る眼光に向かってもう一度同じ言葉を吐いた。

 

「離せ!!!!」

 

 空を舞った日番谷は、もう何者にも怯むことはない強い目で闇の中に向かって刀を振り下ろす。影が、動いた。そう思った思考はけれど、軋むような不快の音で違うと知れた。ベキベキと音をたて”闇の中心”から細い木の枝がなぎ払われていく。それは最初、二つの瘤のように対をなして徐々に大きくなり、抑される力にもう耐えられないというかのように、バサリと音を立てて日番谷の前に現れた。突如として風が起こりそれは鋭さを残したまま日番谷に押し寄せてくる。斬魄刀で風の向きを変えると、いくつか零れ出たものが日番谷のわき腹の死覇装と頬を裂いた。途端に血の匂いを感じて日番谷は裂けた左頬に一瞬目を向けたが、体勢を立て直すと今しがた日番谷を襲った風の源を見下ろした。深い闇のなかにあってもそれは月の光を浴びて薄っすらと光沢している。翼だ。心の中で言うと、日番谷はついさっき呻くような声が言った言葉を思い出した。

 

―アハム シャルベーシャ アスミ

「・・・・シャルベーシャ(有翼の獅子)。」

 

 

 今になってようやく心の引っ掛かりが取れたように、日番谷は目の前の虚を見据えていた。シャルベーシャ。十番隊長が言っていた空紋の番人はこの虚だと、何故か核心のように思った。

 この戦の根源がそこにいる。身のうちにすくう恐怖の源は、最初の襲撃で姿を見せた虚にではなく、もっとずっと深い闇の中で身を潜めていたこの有翼の獅子にだったのだ。

 呟くように漏れた日番谷の言葉に呼応するように、闇の中にあった気配が残像だけを残して動いた。日番谷は咄嗟に斬魄刀を左に切り込む。ギィンと鋭い音と共に、見えない刃はなぎ払われ、いくつかの火花が散る。そのまま切っ先を振り下ろすとそれはいとも簡単に打ち払われ、日番谷の体は地に叩きつけられた。立ち上る土煙の中で立ち上がり口の中に広がった血を吐き出す。再び斬魄刀を構えて見上げた日番谷の眼に琥珀色の目が射抜くような鋭さで迫ってくる。闇の中から抜け出した琥珀色の眼光を携えた”それ”は空に輝く月の光に照らされて、両翼を広げたまさに獅子の姿をしていた。

 

 

「 霜天に坐せ 氷輪丸 」

 

 

 日番谷は一振り、弧を描くように斬魄刀を振るうと臆することなく両翼の獅子に向かって飛び込んでいった。収束されていく空気のうねりが徐々に龍となってその存在を表した。ペキペキと音を立て繕われていく竜神の姿が威嚇するように目を見開いた瞬間、日番谷の翳した切っ先はシャルベーシャの片翼を貫いた。確かな肉を貫く手ごたえ。ずしりと加わる両の掌への重み。低いうめき声が耳元で聞こえ、それはやがて獣の咆哮へと変わる。鼓膜を突き破るような音もばさりと羽ばたいたもうひとつの翼が起こした風の音と混ざり合った。虚の紅い口から覗く四本の牙が容赦なく開かれる。その刹那、日番谷は確かに月明かりに晒された獅子の両眼が、琥珀から、澄んだ水底のような蒼碧の色に移り変わるのを見た。見えるはずのない陽炎が、そこにはたゆたっていた。

 

 

 

 

 

 

 黄昏に染まる小さな背中でさらりと揺れる黒髪。

 皺の刻まれた手のひらが包む幼い子供の手。

 乾いた大地に咲く一輪の花。

 耳慣れた笑い声。

 はにかむ様に笑う仕草。

 泣き止まぬ赤子の頬に優しく口付けを落とす若い女。

 

 たった一人荒野で佇む子供。

 

 

 目の前に現れていく断片的ないくつかの幻影が、泡沫の如く浮かんでは消えていく。

 

 

 やがてゆらり、と一人の青年の姿が現れた。

 黒髪を風に揺らせ背を向けたその青年は学院の袴を着てゆっくりと振り返る。その顔が日番谷をみて微笑んだとき、声にならない自分の叫び声を日番谷は聞いた気がした。

 

 

「・・・・一夜、の、・・夢に綻、べ  月来香」

 

 

 その時、か細く鳴くような始解の言葉に誘われて日番谷は覚醒した。はっと息を吐き、急速に取り戻していく視界が今まさに自分に食い入ろうとしている虚の牙に見開く。 

 青年の姿は何処にもなかった。赤く染まった牙だけが猛威を振るってそこにあった。

 

 その牙が体を貫こうとしたその刹那、下から細長い鞭状の銀光が虚と日番谷の間を割って入った。次々と放たれる銀光は虚の顎を貫き、日番谷が貫いた片翼を打ち砕き、上空で霧散していく。驚愕に呻いた虚はばさりと翼を開いて後退し、再びうめき声をこぼすと、上空で身構えたままの日番谷を一瞥し、永い時がたったかのような一瞬が過ぎ去った後で、闇に溶け込むようにその姿を深い山の中へ、消した。

 

 

 

 

 

(吐きそうだ、)

 日番谷は崩れ落ちるように空中から地面に降りた。せき止められていた気道が今ようやく酸素を寄りいれたかのように、肺の中に冷たい空気が満たされ、霞んだ視界は、色を取り戻していく。地に叩き付けられたかのごとく降り立った日番谷は闇の去った景色に目もくれず、己を助けた光の源へ走った。

 

 ”その人”はさきほどシャルベーシャに踏みつけられていた場所から一寸も動かない乾いた地面に、力なく横たわっていた。

 

「しっかりして下さい!」

 

 駆け寄った日番谷の手が横たわった死覇装を着た男の肩に触れる。その人は見間違えようもなく一緒に門番をした十番隊員だった。袖のなくなったむき出しの片手で腹部を押さえ、男は痛みに喘ぐように目を開いた。男の周りにできた血だまりに日番谷は歯を食いしめる。傷の深さを確かめ、止血をしようと忙しげに動く日番谷の指先を男は目の動きだけで見下ろし、息をこぼすように笑うとやけに澄んだ目で日番谷を見上げた。

 

「・・・よせ。・・もう、いい。」

 

 止血する日番谷の手を拒む男の声に日番谷は、何を馬鹿なことを、と呻いた。

 

「・・・内臓を・・やられた・・・・・助からない。」

「そんなこと、」

「・・・・わかるさ、・・・これは・・ど、うしようもない・・・・それより・・・・を持っていかれなか・・ったか・・?」

 

「何を、?」

 

 今ここで、瀕死の状態の自分以上に、懸念しなければいけない何があるというのか、門番の男の言葉に苛立ちを覚えて顔をしかめる。そのとき、男の目が日番谷の肩越しに何か見つめ、安堵したように揺れると、蒼白になった顔を綻ばせじっと目を凝らしていなければ分からないような小さな微笑を浮かべた。背後に人の気配を感じて振り返る。息を切らせて佇む十番隊長の姿がそこにあった。

 日番谷は無言で立ち上がり血だまりに横たわる男の元から一歩退いた。膝をついた十番隊長は言葉もなく手を伸ばす。隊員へ。

 

「・・・す、いません・・。隊長。・・・しくじりました・・。・・・・も・・う、・・・・貴方の・・役に立てそうも・・ありません・・。」

 

「もう、喋るな」

 

「・・・・弟、を見ました・・・。あいつ・・・笑って・・。名前を、・・呼びました。・・・幻、だって・・気付いても、手を・・・伸ばしたくな・・りました・・・。・・そしたら、声が・・。」

「声?」

 

「・・・冬獅郎の、・・声が聞こ・・えて・・目が、覚めました、よ・・。・・だ、から、心は、」

 

此処にあります。

 

 

 その先の門番の男の言葉は飲み込まれて十番隊長は伸ばした手で門番の男の頬に触れる。冷たくなった肌は苦しげに呻いてその瞳からは光が今にも消えてしまいそうだった。門番の男は少しだけ目をつぶり、長い長い息をゆっくりと吐き出す。

 

 

 思えば流魂街で弟と二人、野垂れ死んでいくだけだと思っていたのに、隊長という人に出会い、沢山の仲間を得た。それだけで、もういいと門番の男には思えた。もう充分だ、と。

 

 

 男は、目を開けた。そこに宿るいくつかの邂逅を日番谷は知らない。もう、それだけは言わないと気がすまないというかのように、門番の男は十番隊長に強い目を向け、もう一度だけ笑った。

 

 

「・・”本物”の・・・弟の・・とこに、行きます・・。貴方の元で・・、戦えた・・事は、・・俺と・・あいつの誇りです・・・、隊長、」

 

 

―いつか、また貴方の元に。

 

 

 男の最後の言葉は風に紛れて消えて、月夜の下で男の瞼をそっと閉じた十番隊長のその背中を、日番谷は声もなく見つめていた。