最後の約束

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 手を伸ばせば、触れられたような気がした。その体に纏う気配。立ち振る舞い。かげりのない笑顔。漂う風も、やけに高く見えた空も、澄んだ緑も、男の背景にあったもの全てがあの頃のまま目の前にあった。振り返った笑顔に答えるように心の中で名前を呼ぶ。

 

 

 深い痛みだけが胸の奥に残っていた。

 

 

 

 

「空紋を閉じよう。」

 

 広くはない家屋の燭台に灯された小さな明かりが暖められた部屋の空気に揺れていた。静かな気配は何処か凛とした訣別さを漂わせていて、日番谷は灯りに照らされた隊員達の横顔に、決して何者にも手折らせることのできないような澄んだ意志を見る。長い長い沈黙は暗にそれが最後の戦いになる事を含ませていた。ここにいる誰もがわかっていることだ。残された戦力で、立ち向かえる最後の時を迎えている。結跏趺坐の姿勢で両脇に並んだ十番隊員達の一番端で、硬く冷たい床の上に同じ姿勢をとりながら、日番谷はやけに強い響きを持った十番隊長の言葉を聞いていた。

 

「空紋の波動は波のように広がりつつある。開いたり、閉じたりを繰り返して、序々に大きくなっているようだ。今は活動をほぼ停止させて次に開く準備をしている。もう一度空紋が開く前にその存在を抹消する。」

 

 十番隊長は伏せた目で何かを黙し、淡々と戦略に関しての幾つかを席官たちと話すと、神妙に頷いて了解の旨を告げる隊士全てに視線をさまよわせた後で、穏やかに微笑んだ。その姿に息を飲んだのはきっと日番谷だけではない。部屋の空気はやけに暖かくなり穏やかさを伴い、ここにいる全ての死神の身を包む。これまでの戦闘など何もなかったかのような。これから続く悪夢など何もないような。そうしてやけにゆっくりとした声音で、名を呼んだ。隣に居並んだ副隊長を初めとして、官位のない平隊員全ての名。まるでそこにいることを、生きていることを、確かめるように。一人一人、十番隊長の口から呼ばれる名に、皆が強い声ではい、と答え、全ての十番隊員の名前を呼んだ後で男は日番谷に目を向けた。かち合った男の目を見つめた時間はひどく長く日番谷には感じた。

 

「六番隊 日番谷冬獅郎。」

「はい。」

 

 名を呼ばれたと同時に額を床に伏せた。再び顔を上げた日番谷に向ける十番隊長の眼差しは何処までも穏やかで日番谷はこみ上げる言葉を飲み込む。やがて十番隊長はゆっくりと続きの言葉を紡いだ。

 

「これまでの長い戦で、君達が僕の元に刀を捧げてくれた事を僕は誇りに思う。これがきっと最後の戦いになることは皆分かっているだろう。だからこそ、僕は君達に告げたい。隊長という責務を負ってここにいる以上、何を馬鹿なことをと思う者もいるだろう。けれど、これは十番隊長ではない、一人の人間として言わせてほしい。僕はどうしても君達に、ここで戦う以外のもう一つの可能性を与えたい。」

 

 そこまで淀みなく言葉を言い、十番隊長は息を吐いた。誰もがその言葉に聞き入っているのは、僅かに動揺する者もいないのは、十番隊長がこの先に告げる言葉をうすうす皆が感じていたのではないかと、日番谷には思えてならなかった。ある隊士は完全に俯き、ある者は食い入るように隊長の姿を見つめている。

 

「この駐屯地を今を持って解放する。次の戦闘を迎えるまでに、この戦地を去り、死神の名を捨て、生き延びて一人の人間として幸せになれ。その道を選べば瀞霊廷に二度と戻れる日はないだろう。敵前逃亡の汚名を負うことにもなるだろう。けれど誇りを持って死ぬことよりも、生きるということは尊いものだと僕は思う。その意味を考えてほしい。次の日暮れまでに準備ができた者からここを去れ。日が沈んだあともう一度収集をかける。残るものは翌朝僕と鶴峰山に攻撃をしかける。」

 

 そして十番隊長はゆっくりと振り返り、全員の顔を見た後で、小さな子供に言い聞かせるように微笑んだ。

 

「僕が君達に約束してほしいものは、忠誠を誓うことでも、僕と共に果てることでもない。どの道を選んでも、生き延びて、君達が幸せに生きることだけだ。」

 

 

誰かの泣く声が、聞こえた。

 

 

 

 

 静かな黙祷が捧げられ解散が告げられた後で、ひっそりと日番谷は家屋から離れた。外は寒く、昨日と変わらない星の輝きだけが何の感傷もなく空に散りばめられている。失われたいくつかの命を思って日番谷は空を見上げる。

 

「昨日の戦闘が嘘のようだな。こんな星空を見ていると。」

 

 日番谷の見ていた方角と同じ空を見つめ、後ろから十番隊長がゆっくりと歩いてきた。直ぐに膝を着く、それを柔らかく手の動きだけで諌められて日番谷は立ち上がった。無言のまま空を見上げている十番隊長は白い息を吐き出して隣に佇んでいた。先に沈黙に耐えかねたのは日番谷のほうだ。聞きたいことも言いたいことも沢山あった。飲み込んできた感情もぬぐえない疑問も。けれどどれも言葉としてうまく出てこない。それを隠すように日番谷は言う。

 

「ずっと決めていたんですね。」

「何を?」

「隊員を、ここから逃がす、と。」

 

 それが何を意味するかは誰でも知っている。撤退が許されていない十番隊士が確実に生き残る最後の道は、死神である己も捨てることだ。剣を捨て、矜持も捨て、これまでの思いも思い出も置き去りにして、新たな道にゆく。それだけのものを捨てさせても、男が守りたいものはなんだろうか。それが何か他の何にも換えがたい暖かいもののような気がして、日番谷は隣の男を見上げる。けれど、なんとなく気付いている。多分それは、自分も知っているもののはずだ。

 

「それをすれば、貴方は罪に問われます。」

 

 意味のないことだと思っていても言わずにはいられなかった。例えそれで誰かが思いとどまらせようとしても、この人は同じ言葉を言うんだろう。自分を省みず、誰かの生を望むんだろう。ひどく幼稚に響く自分の声が日番谷はうらめしかった。望むのはただ生きることだけなのに、何故その場所が奪われていかなければいけない。’あの時’のように。

 

 十番隊長は、答えぬ代わりに暖かい手で日番谷の頭を撫でた。

(泣きそうだ、)

 

一体何に泣きたいのか、それは知りたくなかった。

 

「何を見た?」

 

 そのとき、日番谷はぐっと声を詰まらせて、何を言われているかわからないという表情で十番隊長を見た。どうして、と言葉だけが繰り返し胸をすくう。隊長が言った言葉が何を指しているのか本当は気付いていた。隊長は見下ろした目を決して逸らすことはせずもう一度問いかけた。

 

「昨日の戦闘で何を見た?君はずっと泣きそうな顔をしてる。亡くなった隊員のことじゃないだろう?君は昨日シャルベーシャと戦ったときに見た何かに傷ついてる。違うか?」

 

 いつの間にか手が震えていた。蘇る残像をかき消すように日番谷は瞼を閉じる。落ち着け。あれは現実じゃない。心でその言葉を繰り返し、そしてひどくゆっくりと息を吐き出すと、質問に答えることはせず、小さな声で男に疑問を投げかける。

 

「あの虚は、一体なんですか。」

「あれは、特殊な能力を持った虚だ。その者と一番深い関りのある者や、記憶を蘇らせて、心を奪っていく。」

”一番深い関りのある者や、記憶を蘇らせて、心を奪っていく。”

あまりに突拍子もない能力の事実に日番谷が閉口しているとふわりと気配が揺れて隊長が日番谷の目の前に立った。強い瞳が日番谷を見下ろしていた。

 

「幸せな記憶である事も、そうでない時もある。けれど、誰が心に根ざす存在を見せられて抗うことができる?あれの能力は強い。捉えられたらほとんどの者は抵抗もできずに夢に堕ちていってしまう。」

「・・・・・・・。」

「心を奪われると魂の一部を拘束され、そうやって囚われてしまえばもう消失することさえ適わない。あれに心を奪われて殺された隊員の斬魄刀が、今もずっと形を保ったままなんだ。肉体を失ったら消失するはずの斬魄刀(魂の片割れ)が解放されることもできないまま形だけを残している。生まれ変わることも消えることもできない苦痛が今も僕の部下を苦しめてる。特殊な能力、というだけじゃない。あの能力は生き通しのこの世界の理から完全に逸脱しているモノだ。君が助けに向かってくれた隊員は、命こそ間に合わなかったけれど、心は」

 

 

―君が助けてくれた。

 

 そこまでよどみなく告げた後で男は日番谷に言った。決して抗えないような、優しさで。

 

「・・・一人で、」

「・・・・。」

「何もかもを背負うとしてはいけないよ。」

「何を、」

「君は、すぐ一人になろうとしているように僕には見える。もし、胸の中に苦しさがあるんなら、それは誰かと分かち合うべきだ。孤独になろうとしてはいけない。」

「・・・懺悔でもしろ、というんですか。」

「話して楽になることもある。君を見るに、シャルベーシャが君に見せた夢は決していいものではなかったようだね。」

 

いいものではなかった?

 

それは違った。

あの頃あった優しさもぬくもりも失われずにそこにあった。

 

懐かしい、幸福な夢だった。

 

 

だからこそ。

 

「・・・・気付いたら、」

 

 

許されない。

あの男の命は、この手で奪ったのだから。

 

「大切なものは、みんな俺のせいで傷ついていく。許されたいと、思っているわけじゃありません。ただ、罪を、」

 

忘れたくないだけだ。

楽になりたいわけじゃない。

 

草冠宗次郎。

 

 その名を呼ぶ痛みを、俺はずっと握り締めてここに立ってる。

 

 

「そうやって、一人になろうとするんじゃない。」

 

 男は俯く日番谷の顔を見るためにしゃがみこんだ。柔らかな霊圧がふわりと日番谷の髪を揺らす。

 

「君が今も悪い夢を見ているというなら、そんなものは忘れてしまえ。」

「できません。」

「できる。君がそれを自分に許すだけで、いい。」

「そんなこと望んじゃいない、」

「痛みを誰かと共有するだけでもいい。」

「一人で背負うべき、咎です。」

「自分が一人じゃないことを知るだけでいい。」

「・・・・俺は、」

 

 剣の道を選んだのは、何かを守りたかったからだった。

 

 それなのに、剣の道が自分から何かを奪っていく。

 何度、この道を捨てようと思ったか知れない。

 親友を失って、望みもしない斬魄刀だけが手の中に残ったとき、とうにこの道には失望していた。

 

 それでも、ここにいるのは、守る事しか自分には残っていなかったからだ。戦う事を同時に誓った。それ以外には、与えられる罰と与えたい罰があるだけだ。自分が幸福になることなど、望んじゃいない。それは許されることじゃない。

 

 

「許されない?」

 

 

 そのとき、男の声がひどく驚いたように、少し困ったように、子供をあやしつけるように問い返した。いつのまにか自分の手に男が触れていることに日番谷は気付いた。男の持ってる人の心を感じる力を思い出したけれど、離せない。男の手は、暖かくて、とても離せない。

 

「こうやって誰かの手をとることに大仰な許しなどいらない。言葉を交わすことも。何かを分かち合うことも。与えられることに怯えることもない。誰かに触れて、ぬくもりを知って、また同じものを人に与えることが君はできる人間だよ。僕には分かる。だって、君は僕に生きてほしいという思いをくれたじゃないか。」

「隊長、俺は・・・、」

「誰かを強く思うことができる君は、人の中で幸福になるべき人間だ。それを忘れないでほしい。冬獅郎。幸せになれ、僕が君に望むのはそれだけだよ、いいね?」

 

鮮やかな記憶に。

振り返った笑顔に。

呼ばれた名に。

 

あの日から呼ぶ事のできなかった名を

今、初めて声にする。

 

 

「・・・・・草冠。」

 

 手を伸ばしたら、きっとこんな風に暖かかったんだろう。失ってから初めて言葉にした名前は、どうしようもなく懐かしかった。この痛みが消える日が来るなら、俺はまたこの手のぬくもりみたいな、陽だまりの中に行きたい。できるのならそれを教えてくれた、今ここにいる人とともに。