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最後の約束 |
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-30- |
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日番谷は斬魄刀を握る。
スラリ、と滑らかな動きで鞘の中から放たれた曇りのない刀身は、日番谷の両目の色さえも翳りなく写しとる。太陽の昇った空さえも映しこむ。手を伸ばしてくるりと手首を返すと、鋭い切っ先は丸い剣筋を空気の中に残す。迷いのない太刀筋。切っ先までブレのない動きが上から下へ真っ直ぐに振り下ろされる。直ぐに反した斬魄刀はカチリとも音はせず、横に一閃ぐるりと弧を描く。地を蹴った。折った膝が吸い込まれるように同じ場所に着地する。反らせた背中。それとほとんど同時に掌の中でくるりと一周する刀は顔のスレスレを回る。幾筋かの銀髪がはらりと切れたが、落ちていくそれに気にも止めない日番谷は刀を振り続ける。一歩、地に着けた足が体重を乗せて踏み込む。胸の真ん中から、突きだされる切っ先。頭(カシラ)に添えた左手がパンと音を鳴らす。と、同時に糸を引くように引き寄せられる刀は一本の垂直な線となって揺れもしない。そのままの形で日番谷の両手は半円を描く。次第に大きくなっていく動き。速ささえも増していく。
ゆるく伏せられた目に朝靄の晴れぬ風景が流れ込んでくる。そこにいる人の姿が、日番谷の心を刹那、捉えた。その人は、無言で立ち尽くし、険しい眼差しのまま、やがて門から去っていく。 けれど日番谷は動きを止めない。息さえも乱さない。そして、視界をとらえたもう一人。長い長い間、流魂街へ続く道の真ん中で駐屯地に向けて頭を垂れていた。どれくらいの時をそうしていたかわからないその姿が、やがて背を向けて歩き出す。流魂街へ。 それでも日番谷は駐屯地の真ん中で剣を動かし続けた。声すらも出さず、視線すらも向けず。一人。もう一人と。この場所からいなくなっていく人を感じながら、動き続ける。踏み込んで、引き寄せて、腕をまわす。やがて日番谷は高く高く飛躍した。飛び散った小石がぱらぱらと落ちていく。弓なりに反らせた背中が空中でくるりと弧を描く。とん、と軽い音で着地したその場所でゆっくりと、ゆっくりと立ち上がった日番谷は目の前に真っ直ぐに翳した刀の棟を一筋するりとなで瞼をつぶる。そうして長い沈黙の果てに、出口を失っていたかのような長い息が吐き出されると、背中の方から手を叩く音が不意に日番谷の耳に聞こえてきた。
「一の舞いだな。」
独り言のように呟くと軽い身のこなしで、男は日番谷のすぐ傍まで歩み寄るとどかりと腰を降ろした。すぐに、飢えた虎、と心の内で思った言葉をかき消し、日番谷は斬魄刀を鞘に収める。額にうっすらと汗が光っていた。
一の舞い。 それは一から十までの数字で構成される剣舞の始まりの舞いだった。真央霊術院に通う者は鬼道や術式を習うよりも早くこの剣舞を知る。それはもはや神のいないこの世界に残るひとつの礼拝であるからだ。剣を持つ者に与えられた文言のない祈り。それが剣舞だった。
「おまえ、これからどうするんだ。」
何故、日番谷がそれを舞っていたのかは、興味がない、というかのように男は軽い口調で日番谷に問いかけた。日番谷は立ち尽くす。見渡せば静かな風景。鶴峰山ですら、先日の戦いが嘘のような沈黙を守っている。そよ風が流れていた。それを感じるように瞼を閉じる。
「俺・・・、貴方に馬鹿だって言われた意味が少しわかりました。」
日番谷は一歩踏み込んだ。
「おい?」
かけられた男の声には答えずに鞘ごと背中からはずした斬魄刀を腰に構え、押さえつけるように柄を握り締める。そのまま三歩、歩を進めた先で、構えられた姿勢のまま回転する。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、・・・数えるたびに早さが増していく。いつつ、回った所で片膝をついて抜刀した。
剣舞、二の舞。 『暁月夜』
再び始まった日番谷の剣舞を見て、男は呆れたようにため息をこぼした。
「昨日、隊長に説得されたんだろ、まさかまだ戦うつもりでいるのか?」
切っ先が左足の甲をすくうように上へ流れていく。滑らかに、緩やかに。風の動きのように。片手で構えられた斬魄刀を振りかざす。半眼に伏せられた瞼が震えている。
「そうだ、と言ったら?」
振り下ろされた斬魄刀。そのまま踏み込んだ足が、くるりと体の向きを変える。切っ先が再び足元から滑らかに上っていった。男のすぐ目の前で構えられた斬魄刀が、もう一度振り下ろされる。
「・・・呆れた餓鬼だな。」
切っ先がしなやかな曲線を描く。そうかと思えば片肘を真っ直ぐに伸ばしてひとつの線を結ぶ斬魄刀。硬質な線となってぴくりとも動かない。
「だから、貴方に馬鹿だといわれた意味がわかったと言ったじゃないすか。」
広げられた腕が、重心となった腰を軸のようにして回転する。風を切る音が。衣擦れの音が。足を踏み鳴らす音が。混ざり合って、ひとつの音として響いている。
「そういう意味でいったんじゃねぇよ。」
額の上に翳された腕が視界を覆う。一筋、振り払われる斬魄刀。目の前を通り過ぎていく切っ先を追うように視線が流れていく。
「俺は、ここでは役に立ちませんか。」
動かし続ける体。そうしている間にも、また一人この地を去っていく姿が刹那、日番谷の目を奪う。それに男が気づいているのは日番谷も知っていた。それでも、男は日番谷と同じように黙している。 鞘が持ち上げられた。両足で踏みしめられる大地。踏み鳴らす。膝を折る。空中でざっと、鞘に収められる刀身。両の掌にあった鞘が大きな弧を描いて再び背中に背負われた。立ち上がった日番谷は真っ直ぐに男を見る。見上げられた目は、何処までも澄んでいた。日番谷の意思を推し量るように。
目が覚めたとき、無性に刀が握りたくなった。いや、本当は体を動かすだけでよかった。だから剣舞は、ちょうどよかったのだ。
断ち切るために。
迷いなら、それで消える。 偽物なら、それで遠ざかっていく。 取るに足りない思いなら、それで忘れてしまえる。
それなのに、刀を振れば振るほど、体を動かせば動かすほど、逆に想いが際立っていってしまうのだ。鮮明に。
―戦わせてくれ。あの人の元で。
男が立ち上がった。呆れたため息をこぼし、日番谷の前に立つと、男の伸ばした手が日番谷の頭をわしわしと撫でた。それは十番隊長がやる仕草にどこか似ていた。日番谷はあまりのことに驚いたがすぐに恥ずかしそうに伏せられた男の顔が見えて目を丸くする。男はもう一度ため息をつき、諦めたかのような声で幾分穏やかに言葉を紡ぐ。
「本当は、俺だってお前の事はとやかく言えねぇ。」 「え?」 「初めて会ったときに、俺も自分の命を捧げたからな、あの人に。」 「・・・・・・。」 「あの人の役に立ちたくて死神になった。別に大儀を持ってたわけじゃねぇ。俺はあの人についていければ別に死神じゃなくてもよかったんだ。お前より馬鹿なのは俺の方だ。だから、お前が戦いてぇって言うんなら帰れなんて言う資格ねぇんだよ。俺は。それにな、ここは馬鹿ばっかりだ。」
日番谷に向けられているはずの目が、何処か遠い場所に馳せるように細められる。それが優しさを帯びていて、日番谷は目をそらせずにいる。
「本当は・・・隊員を逃がすのはこれがはじめてじゃねぇんだ。ここに駐屯地を構える前にもうひとつ大きい戦が清観峠であった。そんときにも、あの人の指示で今みたいに何人かの隊士を流魂街に逃がしてる。昨日みたいに、説き伏せてな。それでも、ほとんどがあの人の所に残った。一度、戦地を離れてから、また隊長んとこに戻ってきたヤツだっている。お前は、他隊から来たやつは自分一人しかいねぇと思ってるかもしれねぇけど、お前みたいな変り種はもう一人いるんだぜ。四番隊のやつが。」
―な。馬鹿ばっかりだろ。
男は肩をすくめて笑った。
「こんなところで会わなかったら、」
そこまで言いかけて、男はその先に続く言葉に自分で苦笑するかのように、言葉を詰まらせた。言わない言葉のかわりに日番谷の額を小突く。
「この戦いが行き着くところと、隊長が言った言葉だけ、ちゃんと自分で考えな。それがどんな結果でも、お前が選んだ道なら、もう何もいわねぇよ。お前はもう、
・・・・・十番隊の一員だ。」
□
女は男の背中を見ていた。広い背中に背負われた十は、この男が愛してやまなかったもののひとつだ。男は、人を愛した。剣を愛した。世界を愛した。それがこの男の戦い方だった。傍らに立った永い年月。どれだけの思いをもって隊長の座に立ち続けていたのか、女は知っていた。物心つく前から共に生きてきたのだ。あの雪深い村で。女の前にはいつでも男の背中があった。あの頃から、今までずっと。目の前の世界が移り変わっていっても、それだけは変わらなかった。けれど、女は気付いていた。男は人を愛していた。世界を愛していた。だから、
「空紋を閉じようなんて、貴方一人で死ぬつもりなのね。」
さらりという女の声に男は振り返った。申し訳なさそうに笑う顔が女はいとおしかった。男の手が頬に伸ばされる。ゆだねるようにしていると指先が黒髪をすいた。そのまま腰に回された手で体を引き寄せられる。息がかかるほどの距離で女はそれでも、男の目を見ていた。最後の斥候がもたらした情報は隊長であるこの男と副隊長である女と数人の席官にしか伝えられていない。鶴峰山の空紋は山の精気のせいか磁場の関係か、最早正規の方法では閉じられないのだ。同等のエネルギーを持って相殺するしかない。同等のエネルギー。例えば、卍解を命と共に開放するような。
「もう私を連れていってくれないの?」
どんな悲惨な戦地へいっても、男は女を一緒に連れていった。当たり前のように連れ添うので、それが当たり前なのだと女も思っていた。それはこれから先だって変わらないもののはずだった。男の指先が戯れるように髪をすく。何度も、触れては、離れる。やがて男の唇が額に触れた。かすかなぬくもりが、残る。女が瞼を伏せると、そこに同じように唇がふれる。それから、頬の上に。唇の上に。
「・・・死神になると決めたとき、大切なものは全部この手で抱えて村を出た。何一つとしてあの村に残してきたものはなかった。」 「私もそうやって抱えられたもののひとつね。」 「そう。君は迷わずについてきてくれた。・・・でも、僕はもう何も持ってはいかない。」 「今度は大切なもの全て、ここに置いていくのね。」
女は男の背中に両手を伸ばした。触れたぬくもりはずっとこの心を満たしていたものだ。この腕の中で女はずっと幸せだった。だからこそ女は、知っていた。男は人を、世界を、愛している。
□
約束の黄昏が過ぎ去った。 再び集った家屋に灯された炎は、日番谷が開けた扉から流れ込む風に大きく揺らめいた。一番奥に十番隊長が座っていた。その隣に副隊長が。両脇には、戦う意思を決めた隊士が。皆が、空けられた扉から入ってくる日番谷を見ていた。この場所に足を踏み入れる、最後の一人。それが日番谷だった。一人、一人、十番隊長の前で剣を捧げる忠義を示す儀礼をとる。最後に十番隊長の元で額を伏せた日番谷は、両手で斬魄刀を捧げた。沈黙を破る隊長の柔らかな声に、声を上げて子供のように泣いてしまおうと日番谷は刹那、思った。
「護廷十三隊十番隊隊長の名の元に、この場を持って六番隊日番谷冬獅郎を十番隊お預かりとする。剣を収めよ。」
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